下総国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 14:23 UTC 版)
地域
古代-中世
郡と荘園
カッコ内には補足(他の呼称・管理者・成立年等)を記述する。
- (1)葛飾郡
- (2)相馬郡(全6郷)
- (3)千葉郡
- (4)印旛郡
- (5)埴生郡
- (6)香取郡
- (7)海上郡
- (8)匝瑳郡
- (9)結城郡
- 高橋郷、結城郷、茂治郷、小埇郷、余戸郷
- (10)猿島郡
- 石井郷、葦津郷、八俣郷
- (11)豊田郡
- 岡田郷、飯猪郷、太方郷
- (12)岡田郡(豊田郡が分割成立)
- 手向郷
中世 - 近世
下総国の藩
特記事項のない限り、須田茂『房総諸藩録』(崙書房、1985年)による。ただし、徳川家康の関東入部後に配置され、関ケ原の合戦後に大名となって転出した1万石以下の知行地も含む。
郡と村
近代以降
郡と村
石高
- 681,062
人口
- 1721年(享保6年) - 54万2661人
- 1750年(寛延3年) - 56万5614人
- 1756年(宝暦6年) - 48万3526人
- 1786年(天明6年) - 46万8413人
- 1792年(寛政4年) - 46万4641人
- 1798年(寛政10年) - 48万4641人
- 1804年(文化元年) - 47万8721人
- 1822年(文政5年) - 41万9106人
- 1828年(文政11年) - 49万7758人
- 1834年(天保5年) - 40万2093人
- 1840年(天保11年) - 49万9507人
- 1846年(弘化3年) - 52万5041人
- 1872年(明治5年) - 64万5029人
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
注釈
- ^ 別称「総州」は上総国とあわせて、または単独での呼称。
- ^ 元禄年間には結城藩が再置されて、結城城も再建されたものの、石高は明治維新まで1.8万石であった。
- ^ 埼玉県は既に武蔵国葛飾郡の北半部を管下に置いている。
- ^ 埼玉県に編入された下総国葛飾郡は中葛飾郡となったのち、武蔵国葛飾郡北半を以て編成された北葛飾郡に編入された。これは下総国であった区域が武蔵国に編入されたことになるので、通常、埼玉県は全域が武蔵国であったとして扱われる。
- ^ 本多康俊(5000石)。慶長6年(1601年)に三河西尾藩に移封[6]。
- ^ 木曾義利(1万石)。慶長5年(1600年)除封[6]。
- ^ 松平定勝(3000石)。慶長6年(1601年)に遠江掛川藩に移封[6]。
- ^ 松平家忠(1万石)。小見川藩に移転。
- ^ 天野康景(5000石)。慶長5年(1600年)に駿河興国寺藩に移封。『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)「近世大名配置表」には大須賀(藩)の記載がない。
- ^ 松平信一(5000石)。慶長6年(1601年)に常陸土浦藩に移封[6]。
- ^ 本多成重(3000石→5000石)。慶長18年(1613年)に越前丸岡藩に移封[7]。
出典
- ^ 「栃木県の旧国名「下野」について、上下で区別されているのはなぜか。上野・下野、上総・下総以外は、越前・越後のように全て前後で区別されているが。」(栃木県立図書館) - レファレンス協同データベース
- ^ 石井進他・編 『千葉県の歴史』 山川出版社、2000年、ISBN 4-634-32120-3、「千葉と房総三国の名の由来」の項。
- ^ 楠原佑介他・編『古代地名語源辞典』 東京堂出版、1981年、ISBN 4-490-10148-1、「総」の項。
- ^ 最新情報:本学駐車場の埋蔵文化財発掘調査を実施千葉商科大学 2023年7月23日閲覧
- ^ <ちばライブ>市川・国府台 下総国の国庁の位置確定したい 市民団体、工事での遺構破壊懸念東京新聞千葉版 2023年7月23日閲覧
- ^ a b c d 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)p.1302「近世大名配置表」
- ^ 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)p.1301「近世大名配置表」
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