ワラキア蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 17:21 UTC 版)
背景
オスマン帝国の侵攻
オスマン帝国がヨーロッパへ勢力拡大に動き、コソボの戦いでバルカン諸侯軍を撃破するとオスマン帝国のバルカン半島支配が決定的となった。そのため、ブルガリア、セルビアはオスマン帝国支配下となりギリシャ、ボスニア、アルバニアもその攻撃を受けた。そのなか、現在のルーマニア南部に位置するワラキアのミルチャ1世 (en) はオスマン帝国の宗主権を受け入れざるを得ない状況に陥り[1]、1411年以降、オスマン帝国へ朝貢を行い[2]、その公位もオスマン帝国の意思によって左右される事態に至った[# 1][4]。
一時期、ウラド3世の時代には遠征してきたオスマン帝国スルタンメフメト2世を2度に渡って撃退し[5]、ミハイ勇敢侯 (en) の時代にはオスマン帝国を撃退してモルダヴィア、トランシルバニアを併合、ルーマニア統一に成功した[# 2]。しかし、ミハイ勇敢侯が死去すると再びワラキアはオスマン帝国支配下となったが[6]、ギリシャ、セルビア、ブルガリアと違い半独立状態で自治権は与えられた[7]。
当初、モルダヴィア、ワラキアはオスマン帝国へ貢納することで自治権を認められていたが、公爵の地位などをめぐって貴族(ボィエール) (en) らの間で争いが生じた。このため、ボィエールらは自らを有利にするためにオスマン帝国の高官らへ賄賂を送るようになったが、これは公爵の地位をオスマン帝国が左右することにつながった[# 3][8][9]。そしてオスマン帝国占領下で認められた正教会を抑えていたためにその地位が向上していたギリシャ人らがワラキア、モルダヴィアへ移住しはじめた[10]。
露土戦争 (1710年-1711年)でオスマン帝国が勝利した1711年以降、ワラキア及びモルダヴィアの諸侯の地位はオスマン帝国の監督下となり、その公位をオスマン帝国で特権を有していたギリシャ人であるファナリオティスが務めるようになった。この中にはイプシランディス家 (en) 、マヴロコルダトス家 (en) といった後にギリシャ独立戦争で活躍する一族も着任した[# 4][11][12]。そしてこのオスマン帝国による統治は徐々に肥大化していたオスマン帝国の維持のために貢納など搾取され、果てには公位でさえも競売される事態に至り[13]、なおかつ極一部の公位を買うことのできるファナリオティスらに独占された[14]。
ワラキア、モルダヴィア両公国は軍隊が廃止されて儀礼など必要最小限にされ、外交権もオスマン帝国の管理下に置かれた。そして搾取はワラキアの人々の困窮と反感をもたらし、18世紀以降、農民らは土地から逃亡し、さらにヨーロッパがオスマン帝国に対して優位になるとオスマン帝国は国の維持のために搾取を強化、これにワラキアの人々は抵抗を強めていった[14][15][16]。
ワラキアを狙う列強国
オーストリアとの間に墺土戦争が発生してオーストリア軍が優位に事を進めると、ワラキアのボイエールたちはオーストリア帝国 領としてワラキア公国を自治国化させることを提言、ワラキア公ニコラエ・マヴロコルダトス (en) はこれを鎮圧するために命令を下したが、そのためにルーマニア正教会大主教アンティム・イヴィレアヌ (en) らが殺害された。しかし結局、ボイエール側が勝利を収め、さらにオーストリア軍がワラキアへ進撃した。このため、1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約でオーストリアはセルビア、ワラキア公国の一部であるオルテニアなどを手に入れた。そしてオーストリアがオルテニアを支配している間、様々な改革が行われた。これは後にワラキアがオスマン帝国に返還された際に諸改革が行われることにつながるが、オスマン帝国の意に反する改革は阻止された[17]。
1735年、ロシア、オーストリア対オスマン帝国の戦い(オーストリア・ロシア・トルコ戦争)が発生するとロシア軍はモルダヴィアへの侵攻に成功したが、ワラキアを奪取しようとしたオーストリア軍は進撃に失敗、オルテニアは放棄された。結局、1739年に結ばれたベオグラード条約 (en) でオルテニアはワラキアへ再び併合された[18]。
またさらに、不凍港を求め南下政策を採用していたロシアのエカチェリーナ2世はオスマン帝国との戦いを続けていたが、露土戦争 (1768年-1774年)で勝利したロシアは1774年に結ばれたキュチュク・カイナルジ条約で黒海北方を得た上でオスマン帝国内のキリスト教徒らを保護する権利も得た。そしてワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールらもこの条約締結の際に参加していたが、彼らはロシア、プロイセン、オーストリアの保障の下でワラキア、モルダヴィアの自治国化を求めた[12][19][20]。
ロシア、オーストリアらがオスマン帝国より優位に立ったことはワラキア、モルダヴィアの人々らに解放の気運を与え、両公国の人々はロシア、オーストリアなどの対オスマン帝国の戦いに義勇軍として参加、ボイエールたちはウィーンやサンクトペテルブルクへワラキア、モルダヴィア両公国の自治を認めるよう覚書を送付してオスマン帝国からの解放を表明した[21]。
1774年以降、一時的な平和を得たワラキア、モルダヴィア両公国は一時的に停止されていたファナリオティス制が復活、アレクサンドル・イプシランティス (en) がワラキア公に就任すると様々な改革が行われた。しかしこの改革も困窮していたオスマン帝国政府が過大な要求を出したため、崩壊、さらに露土戦争 (1787年)が勃発するとロシア軍、オーストリア軍がワラキア、モルダヴィアへ侵攻、両公国は主戦場となり荒廃した。ただしオーストリア軍はフランス革命の発生とオランダにおける反乱の発生のために、途中で手を引かざるをえなくなったため、ロシアとオスマン帝国の間で1792年、ヤシー条約 (en) が結ばれた[22]。そしてバルカン半島においてビザンツ帝国を復活させギリシャ帝国を復興させるというエカチェリーナ2世の夢はモルダヴィア、ワラキア両公国を占領しながらもイギリスとの利害関係が発生した事であきらめざるを得なかった[12][20]。
一方、フランスで台頭したナポレオン・ボナパルトはオーストリア軍を撃破、オーストリアの南東ヨーロッパ進出計画をも断念させた上でルーマニアへ興味を示した。そのため、ワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールたちはナポレオンへ覚書を送り、ワラキアへの自治制導入とファナリオティスによる公位独占を廃止することを求めた。ナポレオンはオスマン帝国に圧力をかけてワラキア、モルダヴィア両公を罷免させたが、これはあくまでも当時対立していたロシアを苦境に陥れるための措置であり、ボイエールらの願いを叶えたわけではなかった[23]。しかし、その一方でナポレオンが1807年にオペール大尉(『モルダヴィアとワラキアに関する統計的基礎知識』の著者)を派遣したことでその影響を受けた[24]。
ところが、このオスマン帝国による両公の解任はロシアとの協定に違反したものであったため、ロシアはオスマン帝国へ宣戦布告、露土戦争 (1806年-1812年) (en) が勃発したが、おりしもナポレオンがティルジットの和約をロシアと結んだためにオスマン帝国は単独でロシアと戦わなければならなかった。そして、両公国は1806年、ロシアによって占領されたが、オルテニアのパンドゥーリ兵(ワラキアにおける非常備軍のこと)はロシアに協力、ロシアはオスマン帝国に勝利したが、この時の経験は後のワラキア蜂起において役立つことになった[25]。
募るオスマン帝国への不満
ロシア軍はワラキア、モルダヴィアにそのまま駐留したが、1812年、ナポレオンとの間に緊張が走ると5月28日、ブカレスト条約が結ばれてロシア軍はベッサラビア等、ロシアへ編入された地域まで撤退、両公国は再びファナリオティスによって統治されることになった。しかし、ファナリオティスたちもオスマン帝国への反発を徐々に明らかにしていった[25]。
しかし、このファナリオティスらによる統治はワラキア、モルダヴィア両公国にとって圧政の象徴でしかなかった。オスマン帝国はこの制度を利用して莫大な金額、膨大な物資を搾取した。日々の労働時間は増加する一方で手工業も列強らが進出したことによって発展が阻害されていた。ワラキア、モルダヴィアで設立された工場のほとんどが短期間で倒産し、一部の工場だけが操業を続けている状況であった[26][27]。
こうしてワラキア、モルダヴィア両公国が発展するにはオスマン帝国を排除するほかないという段階にまで至っていた[28]。1804年以降、セルビアではオスマン帝国に対する反乱が頻発し、1817年に自治を得るに至っていた。また、ギリシャ人らも独立運動を展開しており、1814年、ロシアのオデッサにおいてフィリキ・エテリアを結成して独立を目指していた。こうしてオスマン帝国によって占領されていたバルカン半島の諸民族らに独立の気運が高まりつつあった[29]。
バルカン半島に生じる民族意識
各地で発生する蜂起
1804年、セルビアでオスマン帝国に対する不満から反乱が発生した。後にセルビア蜂起と呼ばれるこの反乱はあくまでもセルビアで暴政を振るったイェニチェリに対してであったが、徐々に民族的側面を帯びセルビアの独立を目指すようになっていった。1804年に始まった第一次セルビア蜂起は失敗に終わったが、1815年に再び始まった第二次セルビア蜂起でセルビアは自治権の獲得に成功してセルビア公国が成立、オスマン帝国下ではあるが指導者ミロシュ・オブレノヴィチ (en) を世襲君主とする自治国家となった[30]。また、ギリシャ人らも独立運動を展開し始め、1814年にはロシアのオデッサでフィリキ・エテリア(友愛教会)が設立され、アルバニア南部のアヤーン、アリー・パシャも不穏な動きを見せていた[31]。
ルーマニアの状況
しかし、ルーマニアはセルビア、ギリシャとは状況が異なっていた。第一に列強の影響を強く受けざるを得なかったこと、第二にルーマニア人社会が分裂していたことであった。
第一点については、ルーマニアはロシアに地理的に隣接しており、ロシア、オスマン帝国の間で戦争が始まると常にその被害を被ることになった。そしてロシアが徐々に優勢になっていくと、両公国は度々ロシアに占領され、その影響を強く受けるようになっていった[32]。
第二点については、両公国はオスマン帝国占領以降も限定的自治権を持っていたことでそれまでのボイエール(貴族)、僧侶らの勢力が保持されたことである。そのため、農民らは農奴と変わらない状況で収奪されていた。そして、ファアナリオティスらによる統治がそれを悪化させていた上でさらにギリシャ人、ユダヤ人らが商業活動を行ったことでさらに苦しめられていた。ルーマニアで中間層を担うべき商人らはギリシャ人、ユダヤ人らに独占されていた。19世紀に入ってようやくルーマニア人らの中間層が形成されたが、これもボイエールと農民層の間で有効な活動ができなかった[33][34]。
そのため、ルーマニア人らのナショナリズムはゆっくりとした歩調で育って行った。オーストリア占領下のトランシルヴァニアではルーマニア人僧侶が活動を行い、両公国に駐屯したロシア軍の影響でフランス文化の影響を受けた[# 5]。そして18世紀に入ると両公国の権力者層を形成していたギリシャ人らが西欧の啓蒙思想を導入したことはルーマニア人らの文化的啓蒙に役立ち、さらにルーマニア人らの民族意識も高めることになった[36]。
ヴラディミレスクの登場
1806年に勃発した露土戦争はワラキア、モルダヴィア両公国の地で展開されたが、これにはルーマニア人義勇兵らもロシア側で参加していた。この戦いはロシアの勝利に終わったが、ブカレスト条約 (1812年) (en) でベッサラビアがロシアに譲渡されるなど、ルーマニア義勇兵の奮闘も報われることはなかった。しかし、ルーマニアの人々はロシアがルーマニアを解放してくれるという期待を寄せ続けていた[37]。そしてこの戦いにはのちにワラキア蜂起の指導者となるトゥドール・ヴラディミレスクも参加していた[38][39]。
ヴラディミレスクは元々民兵(パンドゥル) (en) であったが、1806年の露土戦争に参加した際、第一次セルビア蜂起の指導者であったカラジョルジェ・ペトロヴィチ (en) の仲間であるセルビア人らと接触し、また、オーストリアに滞在した際には後のギリシャ初代大統領となるイオアニス・カポディストリアスらとも親交を結んでいた[40][41]。
ヴラディミレスクはオーストリアに滞在した際、フィリキ・エテリアの活動を知った。そのため、フィリキ・エテリアの指導者であるアレクサンドル・イプシランティスがヴラディミレスクに接触、ヴラディミレスクはフィリキ・エテリアに協力することになった。そしてフィリキ・エテリアが蜂起した際にはイプシランディスがモルダヴィアに侵入する間に当時、御用調達官であったヴラディミレスクがオルテニアで民兵を率いて蜂起、ブカレストを占領して合流することになっていた[42][43]。
しかし、ヴラディミレスクの目的はルーマニア人の権利を拡大することにあり、ギリシャの独立を助けることではなかった。また、ギリシャ人であるルーマニアの支配層ファナリオティスらの排除して「ルーマニア人によるルーマニア支配」を要求することにあった[38]ため、フィリキ・エテリアの目的や手段とは大きく違いを見せていた。
注釈
- ^ ウッドハウスによれば1480年以降は属国という地位になった[3]。
- ^ なお、この時の最大版図が後の大ルーマニア主義につながる[6]。
- ^ そのため、それまで公位はヴォイェヴォドと呼ばれていたのがポスポダル(ポスポダール) (en) と呼ばれるようになった[8]。
- ^ 両公国は1711年から1800年の間に62回、公が変わったが、同じ人物が着任することが多く、公位を務めたのは25人に過ぎず、またそれはファナリオティスの家系、11家族の内のどれかに所属していた[8]。
- ^ これはロシア軍がルーマニアの人々と交渉などを行う際にフランス語を使用したことが関係している[35]。
- ^ この盟約によれば、ヴラディミレスクは人民等に武器を取らせる義務があり、貴族らはそれを支援する義務があるというものであった[44]。
- ^ ルーマニアでは新暦移行が1919 年以降であり、ルーマニア近代史では日付にはユリウス暦(旧暦)を併記するのが慣例[45][46]。
参照
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