ベルリンの歴史 ヴィッテルスバッハ家からポツダム勅令まで

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ベルリンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 07:56 UTC 版)

ヴィッテルスバッハ家からポツダム勅令まで

1320年ハインリヒ2世が没してアスカニア家が断絶したことで、ハインリヒ2世の母方の叔父で当時神聖ローマ皇帝でもあったヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ4世1323年に自らの長男であるルートヴィヒ(ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世)を新たなブランデンブルク辺境伯に封じた。ブランデンブルクを手中に収めるとヴィッテルスバッハ家は強圧的な統治を始めた。1325年にはベルリン=ケルンの司祭で皇帝に反抗していた教皇派のニコラウス・フォン・ベルナウを焼殺したことにより、ローマ教皇はベルリンに対してインターディクト(聖務禁止令)を下した。

1373年ルクセンブルク家カール4世オットー5世(ルートヴィヒ4世の6男)からブランデンブルクを買収して長男のヴェンツェルに与えたが、1380年にはベルリンで大火災が発生し、市庁舎や教会の建物に壊滅的な被害を与えた。

1688年ごろのベルリン(1835年作成)。赤がベルリン、黄色がケルン、その西北にフリードリヒ・ヴィルヘルムの建設する新市街が広がる
フランス語礼拝等のユグノーの伝統を今も守るフランス大聖堂
ベルリン北東部のユグノー入植地にあるフランツェーズィシュ・ブーフホルツ福音主義教会

1415年ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世ジギスムントからブランデンブルクを与えられて選帝侯となり、1440年までブランデンブルクを治める。その後ホーエンツォレルン家1918年まで、当初はブランデンブルク選帝侯として、その後プロイセン公プロイセン国王ドイツ皇帝としてベルリンを治めていくことになる。しかしながらベルリン市民はそういった変革を必ずしも歓迎していたわけではなかった。1448年にはフリードリヒ2世鉄歯侯新宮殿建設に反対してベルリン反乱ドイツ語版が起こる。ところがこの抵抗は成功せず、市民は政治的にも経済的にも自由を失うこととなった。1451年、ブランデンブルク選帝侯はケルンに王宮を建設した。

ホーエンツォレルン家の拠点となったことにより、ベルリンはハンザ都市の地位をやむなく放棄した。また経済活動は通商から貴族階級向けの贅沢品の生産へと転換していった。人口は急速に増加し、1600年ごろには12,000人ほどとなるが、同時に貧困も増加した。この間にはユダヤ人が迫害されることがあった。1510年にはホスチアを盗んで穢したとして100人のユダヤ人に嫌疑が向けられ、そのうち38人が焼殺、2人は後にキリスト教に改宗するが斬首、残りのベルリンにいたユダヤ人は追放された。ただこの30年後には彼らの無実が認められ、ユダヤ人は、金銭を払うことを条件に再びベルリンに居住することが許された。しかし1573年に再度ユダヤ人は追放され、その後100年間は戻ることが許されなかった。

1539年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世はブランデンブルクにおいて宗教改革を行い、教会の世俗的な領地を差し押さえた。これによって得られた資金はグルーネヴァルト狩猟宮殿ドイツ語版と居城であるベルリン王宮とを結ぶ道路、クーアフュルステンダムドイツ語版の建設といった大規模な事業に投じられた。1567年、ベルリンとシュパンダウとの間で3日間に及ぶ戦争(棍棒戦争ドイツ語版)が起こる。この戦争はもともとベルリンとシュパンダウに分かれて模擬戦闘を行っていたものだが、負ける役を与えられたシュパンダウがこれを拒んだことから実際の戦争に発展し、最終的にはベルリンがシュパンダウに大勝する結果となった。

17世紀前半、三十年戦争によりベルリンは被害を受ける。市内にあった家屋の3分の1が損壊し、人口は半減した。1640年、のちに大選帝侯として称えられるフリードリヒ・ヴィルヘルムが父親の死去を受けてブランデンブルク選帝侯を継承する。フリードリヒ・ヴィルヘルムはまず移民の受け入れと宗教寛容策を打ち出す。また市域の拡張開発やフリードリヒスヴェルダードイツ語版ドロテーエンシュタットドイツ語版フリードリヒシュタットドイツ語版といった周辺地区を築いていった。1671年、オーストリアから追放された50人のユダヤ人に住居が与えられた。1685年、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令を下してフランスユグノーを受け入れた。このとき15,000人を超えるフランス人がブランデンブルクに移住し、そのうち6,000人ほどがベルリンに住むようになった。1700年ごろにはベルリン市民のうち20%ほどがフランス系住民となり、ベルリンの文化に大きな影響を与えた。このほかにもベーメン(ボヘミア)、ポーランドザルツブルクからベルリンへ移民が集まってきた。またフリードリヒ・ヴィルヘルムはこのころ常備軍を整備した。


注釈

  1. ^ 現在のベルリン南部のツェーレンドルフドイツ語版や、当時ツェーレンドルフとは別であったシュラハテン湖ドイツ語版沿岸のスラヴ人地域、スラートドルプ(Slatdorp)は一時、レニーン修道院ドイツ語版が所有していた。

出典

  1. ^ Hofmann, Michael; Romer, Frank (Deutsch). Vom Stabbohlenhaus zum Haus der Wirtschaft. Ausgrabungen in Alt-Cöln, Breite Straße 21 bis 29. Berlin: Schelzky & Jeep. ISBN 978-3895411472 
  2. ^ Deutschland: Berlin älter als bisher angenommen (ドイツ語版ウィキニュース)
  3. ^ Waack, Ulrich (2005). “Die frühen Herrschaftsverhältnisse im Berliner Raum - eine neue Zwischenbilanz der Diskussion um die "Magdeburg-Hypothese"”. Jahrbuch für brandenburgische Landesgeschichte (56/2005): pp. 7-38. ISSN 0447-2683. 
  4. ^ Thies, Ralf (2001年). “Schriftenreihe der Forschungsgruppe "Metropolenforschung" des Forschungsschwerpunkts Technik - Arbeit - Umwelt am Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung” (PDF) (ドイツ語). Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung. 2008年8月24日閲覧。
  5. ^ Rekittke, Volker; Becker, Klaus Martin (1995年11月17日). “[http://squat.net/archiv/duesseldorf/Dipl_Int-1_4-2.html Politische Aktionen gegen Wohnungsnot und Umstrukturierung und die HausbesetzerInnenbewegung in Dusseldorf von 1972 bis heute]” (ドイツ語). 1.4.1 Häuserkämpfe in Berlin 1979 - 81. 2008年8月24日閲覧。





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