オットー5世_(バイエルン公)とは? わかりやすく解説

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オットー5世 (バイエルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 14:29 UTC 版)

オットー7世
Otto VII.
ブランデンブルク選帝侯
在位 1365年 - 1373年
別号 バイエルン公(5世)
在位 1347年 - 1351年

出生 1340年?
死去 1379年11月15日
神聖ローマ帝国
バイエルン公領、ヴォルフシュタイン城
埋葬 神聖ローマ帝国
バイエルン公領ランツフート、ゼリゲンタール修道院
配偶者 カタリーナ・フォン・ルクセンブルク
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世
母親 マルガレーテ・フォン・ホラント
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オットー5世(Otto V., 1340年? - 1379年11月15日)は、14世紀バイエルン公(上バイエルン公)(在位:1347年 - 1351年)、ブランデンブルク選帝侯(オットー7世、在位:1365年 - 1373年)。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世エノー伯ホラント伯、ゼーラント伯相続人マルガレーテの末子。ルートヴィヒ5世シュテファン2世の異母弟、ルートヴィヒ6世ヴィルヘルム1世アルブレヒト1世の同母弟である。

生涯

1347年に父が没し、1349年にその遺領を分割した際、上バイエルンはルートヴィヒ5世、ルートヴィヒ6世、オットー5世が、下バイエルンはシュテファン2世、ヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世がそれぞれ共同統治することに決定した。オットー5世はまだ幼かったため、1360年までネーデルラントで同母兄ルートヴィヒ6世の後見を受けた。

1351年、ルートヴィヒ6世と共に上バイエルンを異母兄のルートヴィヒ5世に譲渡した。1365年、ルートヴィヒ6世が子供のないまま亡くなったため、ブランデンブルク選帝侯領を継いだ。翌1366年に神聖ローマ皇帝カール4世の娘でオーストリア大公ルドルフ4世の未亡人カタリーナと結婚した。この結婚に先立ち、ルートヴィヒ6世とカール4世の間で兄弟に子供がなかったらルクセンブルク家にブランデンブルクを譲渡すると決められていた。

しかし、カール4世は1371年にブランデンブルクに侵攻し、1373年に多額の賠償金をオットー5世に支払って自身の長男ヴェンツェルにブランデンブルクを譲渡させた。オットー5世はバイエルンに引退し、以後は選帝権を保持したままシュテファン2世及び3人の甥達(シュテファン3世フリードリヒヨハン2世)の名目上の共同統治者としてランツフートで余生を過ごした。

1379年に死去した。カタリーナとの間に子供はなかった。

参考文献

先代
ルートヴィヒ4世
バイエルン公
1347年 - 1349年
ルートヴィヒ5世シュテファン2世ルートヴィヒ6世ヴィルヘルム1世アルブレヒト1世と共同統治
次代
上バイエルンと下バイエルンに分割
先代
バイエルンから分割
上バイエルン公
1349年 - 1351年
ルートヴィヒ5世ルートヴィヒ6世と共同統治(1351年まで)
次代
ルートヴィヒ5世に譲渡
先代
ルートヴィヒ3世
ブランデンブルク選帝侯
1365年 - 1373年
次代
ヴェンツェル



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