ハインケル He111 実戦

ハインケル He111

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 00:51 UTC 版)

実戦

1937年 - 1939年スペイン内戦で、実戦投入され、一定の戦果を挙げる。

また同時期に、日独伊防共協定を結んでいた大日本帝国で、日中戦争支那事変)が勃発。大日本帝国陸軍は、旧式化した九三式重爆撃機に対し、新鋭後継機である九七式重爆撃機の配備が充足していなかったため、中継ぎの爆撃機を海外から輸入して対応する計画を立て、He 111の輸入を希望したが、ドイツ軍部が反対したために実現しなかった[注 2]

その後勃発した第二次世界大戦では、1939年のポーランド侵攻や1940年のフランス戦など、大戦当初は主力機として活躍したが、爆弾の大型化に伴い速度が低下し、また防禦力も低かったため、バトル・オブ・ブリテンでは大損害を被った。

以降、東部戦線を除いて昼間爆撃任務の殆どはJu 88が行うようになり、He 111は夜間爆撃機、ミサイル母機や偵察機雷撃機として活躍した。東部戦線でも1943年頃からHe 111の爆撃任務は夜間に限定されるようになった。1942年にはスターリングラード攻防戦で包囲された友軍への空中補給任務を行い、大戦末期にはほとんど輸送機として任務に就いた。

1942年に後継機のHe 177が登場したが、技術的問題で初期不良が多発したため稼働率は低く、He 111は既に旧式化していたものの1944年まで製造された。

大戦前に中華民国へ輸出され、大戦中にはドイツと同盟関係にあった枢軸国にも供与された。

大戦末期には、スペインが、CASA 2.111としてライセンス生産し、大戦後も1973年まで使用された(後述)。

なお、1941年ヴェルナー・メルダースが事故死した際に乗っていたのもHe111である。メルダースは、自殺したエルンスト・ウーデットの葬儀に向かう途中で事故に巻き込まれた。


注釈

  1. ^ 本機の主翼配置は低翼式のため、爆弾倉の位置する主翼間の胴体下面は主翼の主桁が左右に貫通していることから、爆弾は主桁を避ける形で搭載せざるを得ず、このような構造の爆弾倉となった。
  2. ^ 連合軍は、中島飛行機がエンジンを空冷のものに換装した上でHe 111を「九八式重爆撃機」として国産化したという誤った情報を信じており、コードネームとして「Bess(ベス)」の名前を与えている [3]

出典

  1. ^ Cruz Air Enthusiast September/October 1998, p. 35.
  2. ^ Nowarra 1980, p. 233
  3. ^ 秋本実『日本陸軍試作機大鑑』酣燈社、2008年、231頁。ISBN 978-4-87357-233-8 
  4. ^ Bridgman, Leonard, ed. "The Heinkel He 111 H". Jane's Fighting Aircraft of World War II. London: Studio, 1946. 167. ISBN 1-85170-493-0






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