ダイワテキサス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 02:38 UTC 版)
経歴
競走馬時代
1995年、7月に札幌競馬場で行われた新馬戦でデビューを果たすも4番人気で8着だった。続く新馬戦は、圧倒的1番人気で勝利したエアグルーヴに次ぐ2着となる。
1996年、5月に未勝利戦を制し、デビュー6戦目で初勝利を挙げ、続くロベリア賞(500万下)も制し2連勝で初の重賞となるラジオたんぱ賞に挑戦するが、7番人気で7着だった。その後は信濃川特別(900万下)に出走し2番人気に支持されるが4着だった。
1997年、この年7戦目となった松島特別(900万下)を制し、約1年ぶりの勝利を挙げる。その後900万下クラスのレースを3戦し2着2回、3着1回と好走するも勝利することはなかった。
1998年、この年2戦目となったリバーテムズ賞(900万下)を制すと、続く安達太良ステークス(1600万下)、日本海ステークス(1600万下・レコード勝ち)も制し3連勝で関屋記念に出走し、1番人気の支持に応えレコードタイムで重賞初勝利を挙げた。続くオールカマーでも1番人気に応えて優勝して重賞2連勝を含む5連勝となり、秋のGI戦線で期待されたが、脚部不安を発症したため秋のGI戦線を前にして休養に入った。
1999年、休み明けとなった中山記念でも2着と健闘したが、またも脚部不安を発症。復帰後には札幌記念4着、オールカマー3着と善戦こそするが勝ち切れず、初のGI挑戦となった天皇賞(秋)では本馬場入場時にセイウンスカイに身体をぶつけられるアクシデントに見舞われ9着に惨敗、続くマイルチャンピオンシップでもレース中に脚部に外傷を負い10着と大敗した。
2000年、この年3戦目となった中山記念を5番人気で制し重賞3勝目を挙げる。その後4戦は、エプソムカップで12番人気で2着に入るなどした。そして迎えた関屋記念をトップハンデの59kgで制して重賞4勝目を挙げ、続く新潟記念も前走同様トップハンデの59kgを背負って1番人気に応えて重賞5勝目を挙げた。その後は重賞連勝の勢いのまま秋古馬三冠レースに出走し、得意とする中山競馬場で行われた有馬記念では、13番人気ながらも3着となった。
2001年、2番人気となった金鯱賞での2着、毎日王冠で10番人気ながら3着、秋の天皇賞では5着と掲示板に載るなどはしたが勝ち星を挙げることはできず、11着に敗れた有馬記念を最後に引退することになった[2]。翌2002年1月6日に東京競馬場で引退式が行われ、調教での騎乗を担当した牧原由貴子が騎乗しラストランを披露した[2]。
種牡馬時代
2002年春からアロースタッドで種牡馬となり[2]、2003年ファーストクロップとなる産駒が誕生した。産駒は2005年にデビューを果たしたものの、中央競馬では3勝をあげたダイワグラムが出た程度で産駒成績は芳しくなく、2007年種牡馬生活を引退し、8月3日にいかっぷホロシリ乗馬クラブに移動して用途変更(乗用馬)となった。
2015年10月からはつつみ牧場で功労馬として余生を過ごしていたが、2021年11月28日に死亡した[3]。
代表産駒
- 2004年生
- テキサスイーグル(名港盃)
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “ダイワテキサス”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2022年10月25日閲覧。
- ^ a b c “元気いっぱい…テキサス引退式”. スポーツニッポン (2002年1月7日). 2003年3月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月6日閲覧。
- ^ “重賞5勝のダイワテキサス死す 有馬記念ではテイエムオペラオーに肉薄3着 - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル”. スポニチ Sponichi Annex. 2021年11月29日閲覧。
- ^ “ダイワテキサスの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年2月27日閲覧。
固有名詞の分類
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