ケイエスヨシゼン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/17 23:32 UTC 版)
ケイエスヨシゼン | |
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品種 | アングロアラブ(血量29.27%) |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1993年4月27日 |
死没 | 2006年10月??日(13歳没) |
抹消日 | 2001年12月31日 |
父 | ミスターヨシゼン |
母 | ニユーマルセイユー |
母の父 | トスター |
生国 | ![]() |
生産 | 道見忠信 |
馬主 | (有)テイリツ |
調教師 | 保利照美 |
競走成績 | |
生涯成績 | 64戦25勝 |
獲得賞金 | 200,888,000円 |
ケイエスヨシゼンとは兵庫県競馬組合で活躍したアングロアラブ種の競走馬で、ミスターヨシゼンの産駒を代表する競走馬でもある。「アラブのメッカ」とまで言われた兵庫県競馬組合において、アサヒマロツト(1970年)以来史上2頭目のアラブ系競走の三冠馬となる。三冠馬となった1996年、NARグランプリ年度代表馬に選出される。
概要
現役期
1995年に兵庫県競馬組合・園田の保利照美厩舎に入厩し、同年7月19日姫路競馬場で開催された3歳新馬戦に出走し勝利を飾る。同年末、当時まだ兵庫所属であった岩田康誠を初めて鞍上に迎える(以後48戦にわたり、岩田が本馬の主戦騎手として騎乗した)。
デビューして以降は、6歳時の3月に佐賀競馬場で開催された西日本地区招待アラブ大賞典に出走するまでの32戦のうち連対を外したのは3度で、連対を外した3度の全てを3着にまとめていた。しかしその強さを見せつけるにつれ負担重量が重くなり、一部の定量戦を除き60kg以上を背負わされる事が多くなった上、ニホンカイユーノスなど一歳若いライバル達の出現で連対に絡むことが難しくなる。それでも何とか8歳の9月までは掲示板(5着以内)を外すことはなく、安定した結果を残す。ただ、距離を問わず活躍できたが調子の良し悪しに関らず不良馬場をやや苦手にしており苦戦を強いられることが多かった。
しかし9歳も近づくと彼もさすがに衰えが見え、下位入線が目立つようになる。2001年のサマーカップを最後に引退。9着であった。2001年12月5日ケイエスヨシゼンの引退式がしめやかに行われ、同じ年の大晦日12月31日に登録を抹消。
現役引退後
現役を退いた後は一度は種牡馬となるも、アラブ系競走の減少等のあおりを受け種付け件数も多くはなく、日本国内で出走した産駒は13頭にとどまっている。 種牡馬としての供用を終えて以降、乗馬として供用が開始されたが2006年10月供用先の牧場で心不全のため死亡。
主な戦績
- 1996年
- 菊水賞 楠賞全日本アラブ優駿 六甲盃(園田)、西日本アラブダービー(福山)、タマツバキ記念名古屋杯(名古屋)
- 1997年
- 1998年
- 1999年
- 西日本地区招待アラブ大賞典(佐賀)、兵庫大賞典(園田)
- 2000年
血統表
ケイエスヨシゼンの血統エルシド系 /バラツケー 5×5 /「アア」表記はアングロアラブ種 「アラ」表記はアラブ種 「*」が付された馬名はシャギア・ギドラン・サラ系 | |||
父
アア ミスターヨシゼン 1984 鹿毛 |
アア キタノトウザイ 1976 栗毛 |
アア スカレー | アア エルシド El Cid |
アア トモスカツプ | |||
アア イナリトウザイ | サラ Karim | ||
アア タクマサル | |||
アア ヨシゼン 1971 鹿毛 |
アア センジユ | アア 方景 | |
アア イースタン | |||
アア ヨシハート | アア マツギク | ||
サラ ハートフジ | |||
母
アア ミスマルセイユー 1982 鹿毛 |
アア トスター Tostar 1973 |
サラ Star | サラ Soleil Levant |
サラ Serena | |||
アア Toscane | アラ Djerba Oua | ||
アア Traviata | |||
アア テツホマレ 1965 |
アア セイユウ | サラ Rising Flame | |
アア 弟猛 | |||
アア トキカネ | サラ トシシロ | ||
アア 明美 ゴンパスギドラン七系 |
注釈
- ^ 同着優勝
外部リンク
- 競走馬成績と情報 netkeiba、KEIBA.GO.JP、JBISサーチ
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固有名詞の分類
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