ジェット気流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 02:02 UTC 版)
発見の歴史
1883年のクラカタウの噴火を観測していた人々は、一年あまり噴火の影響を追跡し、記録していた。彼らは「赤道上空の噴煙の流れ」として、ジェット気流の存在を記録していた[2][3]。
1920年代には、日本の高層気象台長大石和三郎は、欧米諸国がその存在に気づく以前に、ジェット気流の存在を発見した[4][5]。富士山の付近から測風気球を飛ばすことで上層の風を調査したものであった[6]。しかし、エスペラントで発表したため、外ではこの論文は注目を集めなかった。
1933年、アメリカ合衆国のパイロットであるウィリー・ポストが世界一周飛行の際にジェット気流に遭遇した。1935年には、 高度10,000 mを越える上空の大陸間飛行を何度か行い、ジェット気流に乗ると対気速度に対して対地速度が大幅に上回る事実が確かめられた[7]。しかし、その後まもなく事故死したため詳細を発表しないまま終わった。
1939年、ドイツ国(当時)の気象学者ハインリヒ・セイルコフ(ドイツ語版、英語版)がこの気流を発見し、"Strahlstrom"(ドイツ語でジェット気流)と名付けた[8]。
第二次世界大戦中になって、ドイツ空軍が緒戦でヨーロッパ諸国を爆撃したときにジェット気流に遭遇したこと、アメリカ軍の航空機がマリアナ諸島から日本本土空襲に向かう際に強い向かい風にあったことなど(B-29がスロットルを全開にしても「後ろへ飛んだ」という話すらある[9])、その存在が頻繁に確認され、欧米諸国でもジェット気流の存在が広く知られるようになった。しかし、学術調査が行われることはなかった。
第二次世界大戦中に唯一学術研究を行っていた日本は、ジェット気流を利用した初の兵器「風船爆弾」を開発し、1944年(昭和19年)11月から翌年にかけて約9,000個の爆弾をアメリカとカナダ、アラスカに飛来させ、アメリカの民間人に死傷者を出した。1945年(昭和20年)2月には、日本陸軍の一〇〇式司令部偵察機が、北京 - 東京間を3時間15分で飛行する速度記録を残した。
- ^ “航空豆知識「行きと帰りでなぜ飛行時間が違うのか」”. 日本航空. 日本航空月刊誌『Agora』. 2016年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。
- ^ Winchester, Simon (2010年4月15日). “A Tale of Two Volcanos”. New York Times
- ^ Bishop, S.E. (1885年1月29日). “Krakatoa”. Nature: 31, 288 - 289. doi:10.1038/031288b0 .
- ^ John M. Lewis. Oishi's Observation: Viewed in the Context of Jet Stream Discovery. Retrieved on 2008-05-08. [リンク切れ]
- ^ “OOISHI'S OBSERVATION”. アメリカ気象学会. doi:10.1175/BAMS-84-3-357. 2022年10月23日閲覧。
- ^ Martin Brenner. Pilot Balloon Resources. Retrieved on 2008-05-13.
- ^ Acepilots.com. Wiley Post. Retrieved on 2008-05-08.
- ^ Arbeiten zur allgemeinen Klimatologie By Hermann Flohn p. 47
- ^ テケネス『鳥と飛行機 どこがちがうか』pp. 66 - 67
- ^ “季節予報研修テキスト 第25巻(平成24年度) 第6章:季節予報用語集” (PDF). 気象庁. p. 331. 2022年10月23日閲覧。
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