ジョン・ケメニー
【英】John Kemeny, John G. Kemeny, John George Kemeny
ジョン・ケメニーとは、米国のプログラマーである。ハンガリー国ブタペスト生まれ。1964年、トーマス・カーツと共に初心者向けプログラミング言語であるBASICを開発したことで知られている。1992年没。
BASICの登場によって初めて、コンピュータの専門教育を受けていない者でもプログラミングに携わることができるようになったといえる。BASIC(Beginner's All-purpose Symbolic Instruction Code)の名に示されるように、広く一般的に扱える体系を構築することがポリシーとして掲げられていた。
1943年、ジョン・ケメニーはプリンストン大学へ入学。専攻は数学だった。1945年、徴兵のため陸軍へ入隊。原爆研究で有名なマンハッタン・プロジェクトに参加し、コンピュータの運用を任された。ちなみに、同プロジェクトでは、同じくハンガリー生まれの鬼才、フォン・ノイマンが中心的役割を果たしていた。
1947年、プリンストンへもどり大学院に進学。その期間、1948~1949年にかけて アルバート・アインシュタインの研究助手を務めていたことがある。博士号を取得したケムニーは1949年からプリンストン大学で数学と哲学を教えた。1953年にダートマス大学の教授として招かれ、以後学部長から学長までを歴任した。1981年、教授職を退き、1985年にカーツと共に起業し、BASICをより堅牢にした「トルーBASIC」を開発・販売した。ただ、すでに登場しつつあったPascalなどの勢いが強かったため、それほど大きな反響を呼ぶことはなかった。
ジョン・ジョージ・ケメニー
(John G. Kemeny から転送)
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ジョン・ジョージ・ケメニー(John George Kemeny, [ˈjaːnoʃ ˈɟørɟ ˈkɛmeːɲ]、1926年5月31日[1] - 1992年12月26日)は、ハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人で、数学者・計算機科学者で教育者であり、1964年にトーマス・E・カーツと共同でプログラミング言語BASICを開発したことでよく知られている[2]。1970年から1981年まで、ダートマス大学第13代理事長を務め、大学教育にいち早くコンピュータを取り入れた。1979年にはスリーマイル島原子力発電所事故の事故調査委員会委員長を務めた[2]。
- ^ a b c d e f Weibel, Peter (2005). Beyond Art - A Third Culture : a Comparative Study in Cultures, Art, and Science in 20th Century Austria and Hungary. Springer. pp. 350. ISBN 3-211-24562-6
- ^ a b c d e Faison, Seth (1992年12月27日). “John Kemeny, 66, Computer Pioneer and Educator (obituary)”. The New York Times 2008年2月2日閲覧。
- ^ a b Ohles, Frederik; Shirley M. Ohles, John G. Ramsay (1997). Biographical Dictionary of Modern American Educators. Greenwood Publishing Group. pp. 189. ISBN 0-313-29133-0
- ^ “True Basic. A sketch of John Kemeny”. Dartmouth Alumni Magazine (2001年12月13日). 2012年7月23日閲覧。
- 1 ジョン・ジョージ・ケメニーとは
- 2 ジョン・ジョージ・ケメニーの概要
- 3 外部リンク
「John G. Kemeny」の例文・使い方・用例・文例
- John AbrahamsとTina Linがアンケートデータの収集担当で、この作業は5 月5 日までに終わるでしょう。
- 今日は、皆さんをJohn Driscoll展にご案内する予定で、この展覧会は当美術館の30周年を記念して行われているものです。
- John Smith という名の英国人だ
- そんな英語を使うと Johnson が泣く
- 限定属格の例として、『John's mother(ジョンの母親)』における『John's(ジョンの)』がある
- 『John and Mary(ジョンとメアリー)』または『John walked and Mary rode(ジョンは歩き、そして、メアリーは乗り物に乗った)』における『and』、等位接続詞である;そして、『will you go or stay?(行くか、いてもらえますか?)』における『or』もそうである
- 『who visits frequently(その人はしばしば訪れる)』は、『John, who visits frequently, is ill(しばしば訪れるジョンは病気である)』の文の関係節である
- 建国の父 《G. Washington のこと》.
- 彼は信仰の自由と寛容を毅然と支持した‐C.G.バワーズ
- 地面を血で染めた血生臭い復讐心でその協力者たちを追いかけた ? G.W.ジョンソン
- 無産のプロレタリアートの党−G.B.ショー
- 太平洋戦争の分岐点と記された、我々の海軍機動部隊の捨て身の勇敢さ−G.C.マーシャル
- やる気のない、元気がない若い遊び人−P.G.ウッドハウス
- 軽快そうに見える…自分のユーモアで楽しむような男性のように−G.パットン
- 時にはっきりと理解されるもので、時にその意味は不透明であった−H.G.ウェルズ
- 目前の、またはかけ離れた目的もなく‐G.B.ショー
- 伝統のある貴族的な高い教養を持った外交官はひそかにその試みをむしばみました。・・・西洋の民主主義とドイツを結ぶために。−C.G.バワーズ
- 自分のために得をしない限り何もしない人々というのは、時にきわめて効率の良い人である…−G.B.ショー
- ソビエト国家の総括的な研究−T.G.ウィナー
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