1973年オイルショック
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「アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の記事における「1973年オイルショック」の解説
詳細は「オイルショック」を参照 事態をさらに悪くしたのは石油輸出国機構がその力を誇示し始めたことだった。国内の自動車と家屋の事情は、郊外の大きな家屋と大きな自動車を所有するのが普通になってきており、その燃料となる石油はその利益のために戦いを始めた第三世界諸国の経済と政治の道具になってきていた。1973年の第四次中東戦争に続いて、石油輸出国機構のアラブ諸国はイスラエルを支持する国家すなわちアメリカ合衆国や西欧諸国に石油を供給しないという声明を出した。これと同時に石油輸出国機構の他の諸国は原油価格の400%値上げに同意した。これが1973年オイルショックとなり、アメリカ合衆国の自家用車所有者はガソリンスタンドの給油を待つ長い行列を作ることになった。公共および民間の施設は暖房用石油を節約するために閉鎖された。工場は生産を止め、労働者をレイオフした。石油の禁輸以外の1つの要素が1970年代のインフレ拡大を生んだほど大きな力を発揮したことは無かった。ただし、この事件はこの10年間を特徴付けるエネルギー危機のほんの端緒に過ぎなかった。 石油禁輸に対するアメリカ合衆国政府の反応は素早かったが限られた効果しか上げられなかった。ガソリン消費を抑えるために国内道路の最高制限速度は55マイル/時 (88 km/h) に制限された。ニクソン大統領はウィリアム・E・サイモンを「エネルギー皇帝」に指名し、1977年には内閣を構成する部局としてエネルギー省が創設され、さらにアメリカ合衆国の戦略的石油備蓄が始まることになった。1978年の全国エネルギー法もこの危機への対応だった。 連邦政府は国内の価格統制を徹底させることで不況をさらに悪化させた。これは既に発見されていた石油(古い石油)の価格を制限し、新しく発見された石油を高い価格で購入されるようにしたものであり、その結果古い石油は市場から消え、人為的な石油不足が起こった。このやり方は新しい石油開発を促進させることが意図されていた。この石油不足に対してはガソリンの配給制につながり(アメリカ合衆国以外の多くの国でも行われた)、自家用車所有者がガソリンスタンドで長い列を作った。 アメリカ合衆国では奇数偶数配給制が採られた。車のナンバープレートの末尾数字が奇数であるか仮ナンバーである者は奇数日にのみガソリンを入れることを認められ、偶数ナンバーの者は偶数日にのみ認められた。この規則は31日ある月の31日には適用されなかった。 アメリカ合衆国の幾つかの州ではガソリンスタンドでのガソリンの供給可能性を示すために3色の旗が使われた。緑の旗は供給制に拠らずガソリンの購入が可能であり、黄色の旗は供給制で売られることを示し、赤い旗はガソリンは無いが他のサービスは可能であることを意味した。 一年間を通じて日光節約時間が設定された。1974年1月6日午前2時に全国の時計が1時間進められた。このために多くの学童が日の出前に通学することを強いられたので大きな批判を呼んだ。その結果、10月の最終日曜日に時計は元に戻され、さらに1975年2月23日午前2時にまた時計が1時間進められた。これは日の出前の通学を避けるためだった。この日光節約時間は4月の最終日曜日に時計を進めることになり、夏時間として1976年から本格実施された。 エネルギー危機では個人や事業もエネルギーを節約する呼びかけを行わせた。特に著名になったのは広告委員会が「燃料無駄遣いをするな」(Don't Be Fuelish、これは Don't Be Foolish にかけてある)という洒落を使った宣伝活動だった。多くの新聞では全面広告で、照明スイッチに貼り付けられる「最後のときは消灯、燃料無駄遣いをするな」というスローガンの書かれた切り抜き可能なラベルを載せた。 アメリカ合衆国の自動車「ビッグスリー」では、企業平均燃料経済標準が発行された後に出した最初の事業指令は既存の車種をダウンサイズさせることだった。1970年代が終わるまでにホィールベース121インチ (3.07 m)、車重4,500ポンド (2,000 kg) の自動車は過去のものになった。自動変速装置や電子制御燃料噴射装置が大量生産される前に、伝統的なフロントエンジン/リアドライブの配置が消えて行き、より効率的かつ統合されたフロントエンジン/フロントドライブの配置に置き換わり、コンパクトな車に変わった。フォルクスワーゲン・ゴルフを原型として、企業平均燃料経済標準が定めた燃費効率27.5マイル/ガロン (11.6 km/L) に対応し、デトロイトで生産する車の大半がフロントドライブになった。フォード・フェアモントのような車は1980年代初期だけで短命に終わった。 法では規制されなかったもののモータースポーツは自発的に縮小された。デイトナ24時間耐久レースは1974年に中断された。この年NASCARは全てのレースを10%短縮した。インディ500では予選が4日間から2日間に短縮され、練習日数日間も排除された。
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