1973年オイルショックとは? わかりやすく解説

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1973年オイルショック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 07:20 UTC 版)

アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の記事における「1973年オイルショック」の解説

詳細は「オイルショック」を参照 事態をさらに悪くしたのは石油輸出国機構がその力を誇示し始めたことだった。国内自動車家屋事情は、郊外大きな家屋大きな自動車所有するのが普通になってきており、その燃料となる石油その利益のために戦い始めた第三世界諸国経済政治道具になってきていた。1973年第四次中東戦争続いて石油輸出国機構アラブ諸国イスラエル支持する国家すなわちアメリカ合衆国西欧諸国石油供給しないという声明出した。これと同時に石油輸出国機構の他の諸国原油価格400値上げ同意した。これが1973年オイルショックとなり、アメリカ合衆国自家用車所有者ガソリンスタンド給油を待つ長い行列作ることになった公共および民間施設暖房用石油を節約するために閉鎖された。工場生産止め労働者レイオフした。石油禁輸以外の1つ要素1970年代インフレ拡大生んだほど大きな力を発揮したことは無かった。ただし、この事件はこの10年間を特徴付けるエネルギー危機のほんの端緒に過ぎなかった。 石油禁輸対すアメリカ合衆国政府反応は素早かった限られた効果しか上げられなかった。ガソリン消費抑えるために国内道路の最高制限速度55マイル/時 (88 km/h) に制限された。ニクソン大統領ウィリアム・E・サイモンを「エネルギー皇帝」に指名し1977年には内閣構成する部局としてエネルギー省創設され、さらにアメリカ合衆国戦略的石油備蓄が始まることになった1978年全国エネルギー法もこの危機への対応だった。 連邦政府国内価格統制徹底させることで不況をさらに悪化させた。これは既に発見されていた石油(古い石油)の価格制限し新しく発見され石油を高い価格購入されるようにしたものであり、その結果古い石油市場から消え人為的な石油不足が起こった。このやり方新し石油開発促進させることが意図されていた。この石油不足に対してガソリン配給制つながりアメリカ合衆国以外多くの国でも行われた)、自家用車所有者ガソリンスタンド長い列を作ったアメリカ合衆国では奇数偶数配給制が採られた。車のナンバープレート末尾数字奇数であるか仮ナンバーである者は奇数日にのみガソリンを入れることを認められ偶数ナンバーの者は偶数日にのみ認められた。この規則31日ある月の31日には適用されなかった。 アメリカ合衆国幾つかの州ではガソリンスタンドでのガソリン供給可能性を示すために3色の旗が使われた。緑の旗供給制に拠らずガソリン購入が可能であり、黄色の旗は供給制で売られることを示し、赤い旗はガソリンは無いが他のサービスは可能であることを意味した一年間通じて日光節約時間設定された。1974年1月6日午前2時に全国時計1時間進められた。このため多く学童日の出前通学することを強いられたので大きな批判呼んだその結果10月最終日曜日時計元に戻され、さらに1975年2月23日午前2時にまた時計1時間進められた。これは日の出前通学避けるためだった。この日光節約時間4月最終日曜日時計進めることになり、夏時間として1976年から本格実施された。 エネルギー危機では個人事業エネルギー節約する呼びかけを行わせた。特に著名になったのは広告委員会が「燃料無駄遣いをするな」(Don't Be Fuelish、これは Don't Be Foolish にかけてある)という洒落使った宣伝活動だった。多く新聞では全面広告で、照明スイッチ貼り付けられる最後のときは消灯燃料無駄遣いをするな」というスローガン書かれ切り抜き可能なラベル載せたアメリカ合衆国自動車ビッグスリー」では、企業平均燃料経済標準発行された後に出した最初事業指令既存車種ダウンサイズさせることだった。1970年代が終わるまでにホィールベース121インチ (3.07 m)、車重4,500ポンド (2,000 kg) の自動車過去のものになった自動変速装置電子制御燃料噴射装置大量生産される前に伝統的なフロントエンジン/リアドライブ配置消えて行き、より効率的かつ統合されフロントエンジン/フロントドライブの配置に置き換わり、コンパクトな車に変わったフォルクスワーゲン・ゴルフ原型として、企業平均燃料経済標準定めた燃費効率27.5マイル/ガロン (11.6 km/L) に対応しデトロイト生産する車の大半がフロントドライブになった。フォード・フェアモントのような車は1980年代初期だけで短命に終わった。 法では規制されなかったもののモータースポーツ自発的に縮小された。デイトナ24時間耐久レース1974年中断された。この年NASCAR全てのレース10%短縮したインディ500では予選4日間から2日間に短縮され練習日数日間排除された。

※この「1973年オイルショック」の解説は、「アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の解説の一部です。
「1973年オイルショック」を含む「アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の記事については、「アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」の概要を参照ください。

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