1470年~1488年まで
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「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の記事における「1470年~1488年まで」の解説
1471年3月にはミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが弟を引き連れてメディチ家を訪問した際には、彼とその工房が饗応役を務めている。 1472年から75年にかけてフィレンツェのサン・サルヴィ修道院より依頼を受けて、キリストの洗礼を制作。レオナルド・ダ・ヴィンチに天使や背景などを描かせたというが、キリストや右側に居る洗礼者聖ヨハネの部分にもボッティチェリやディ・クレディの手が入っているとする研究者もいる。 本作品には人体の解剖学的構造への著しい関心が見られるのに対し、人物の衣襞や、中景の岩壁の仕上げには稚拙なほどの生硬さが見られるため、ヴェロッキオやレオナルド以外の第3者の手が入っているのは確実であると考えられる。また、全体の構図や主要人物のデッサンをヴェロッキオが決定したことはキリストと聖ヨハネの表現が「聖トマスの懐疑」と共通する要素を持っていることから間違いがなく、おそらく凡庸な弟子を率いて制作を進めていた画面を、腕の良い弟子たちが引き継ぎ、最後の段階でレオナルドが手を加えて完成したものと考えられる。複数の作者の合作であるため、画面全体の不調和や統一感の欠如は否めないが、ヴェロッキオの独自性と力量が遺憾なく発揮された作品である。 なお、本作のレオナルドが担当した部分(主に左端の天使)を見て、レオナルドの卓越した才能に驚嘆したヴェロッキオが自らの絵筆を折ったとする伝説的逸話があるが、これは厳密には間違いであり、実際にはほとんどの絵画制作を弟子たちに任せ、自らは彫刻に専念していったということでしかない。 1477年にはフィレンツェ大聖堂附属のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の祭壇装飾のためのパネルをポッライウォーロやベルナルド・チェンニーニ、フランチェスコ・ディ・ジョヴァンニらとともに受注した。彼が担当した『聖ヨハネの斬首』は残酷な情景を表現しており、1480年に完成した。 受注を巡ってポッライウォーロと競い合った結果、ロレンツォ・デ・メディチの調停により、1478年にもピストイア大聖堂に設置する枢機卿ニッコロ・フォルテグエッリ記念碑を受注している。作品は未完成のまま終わり、弟子たちや後世の芸術家の手によって完成した。ヴェロッキオの手によるものは、キリスト像と作品左側の「信仰」を擬人化した部分程度である。 1480年には、もともとドナテッロが使用していたフィレンツェ大聖堂造営局の裏手の工房に拠点を移した。そのために離れることとなった元々の工房は、ロレンツォ・ディ・クレディが継ぐこととなった。 1479年7月30日にヴェネツィア政府は共和国の傭兵隊長コレオーニのブロンズ騎馬像の建立を決定し、ヴェロッキオやドナテッロの弟子であったバルトロメオ・ベッラーノやヴェネツィアの芸術家であったアレッサンドロ・レオパルディに試作を要請した。要請に応えてヴェロッキオは、1481年に馬の原寸大試作をヴェネツィアへ送り、1483年に2頭目の馬の蝋製試作を送った。この時点でヴェロッキオへの制作委託が決定したという。 バルトロメーオ・コッレオーニはヴェネツィア共和国の傭兵隊長であり、ベルガモの領主で、ミラノにも雇われていた事があるが、ヴェネツィアへ多大な貢献をした。彼は遺書によって、対トルコ戦の費用として10万ドゥカーティを寄贈する代わりに、自身の像をサン・マルコ広場に建てるよう政府に要求したが、共和国制度を採用するヴェネツィアにとって個人の記念像を都市の中心広場に置くことは許容できなかったため、結局サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前の広場に建てられることとなった。 1486年にはヴェネツィアに移住し、本格的な制作にとりかかった。ヴァザーリによれば、鋳造の途中で急病に倒れ、1488年6月30日に亡くなった。死の5日前に認めた遺書により、騎馬像の鋳造はロレンツォ・ディ・クレディに託されたが、結局騎馬像発注の際試作を要請された、ヴェネツィアの芸術家であるアレッサンドロ・レオパルディによって完成され、1496年3月にサン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の広場に設置された。 5年後にレオナルドもヴェロッキオの騎馬像の2倍の大きさの「フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像」の原型を完成させるが、結局それが失われてしまった現在では、芸術的にも技術的にも、バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像を15世紀彫刻史の1つの頂点を示す記念碑的作品と見做すことができる。 遺体は弟子のロレンツォ・ディ・クレディによってフィレンツェに移送され、聖アンブロージョ教会に埋葬された。いろいろな作品の制作途中で亡くなったため、「聖母と洗礼者ヨハネ」などの作品はロレンツォ・ディ・クレディが完成させた。ディ・クレディはヴェロッキオの管財人であり、また筆頭の遺産相続人でもあった。
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