1470年代の作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 07:22 UTC 版)
「サンドロ・ボッティチェッリ」の記事における「1470年代の作品」の解説
1472年にボッティチェッリはフィレンツェの画家信心会である聖ルカ組合に登録し、彼の友人であった15歳のフィリッピーノ・リッピ(師フィリッポ・リッピの息子)を組合に登録するよう勧めた。フィリッピーノは後に親友となるだけでなく、彼の一番の協力者となる。この時期に《聖セバスティアーノ》(元サンタ・マリア・マッジョーレ教会)は制作された。この作品においてボッティチェッリはプラトン・アカデミーの哲学への接近を既に示している。 マルシリオ・フィチーノおよびアーニョロ・ポィツィアーノにより振興されたメディチ家の周辺の学者サークルの中では、現実は2つの大きな原理の組み合わせとして見られていた。つまり一方は神であり、他方は不動の物質である。人間はそれゆえ世界の中で特権的な位置を占めていた、というのも、理性を通して神の観想に到達し得るからである。しかし同時に自らの本能に従い物質性にとらわれるなら最も低い状態へ退く可能性もあった。この作品でボッティチェッリは、身体の美しさを賛美するに留まらず、世俗から聖人を切り離し、周囲の光によって彼を空へ、超越へ近付けている。《ユーディット伝》(1472)の描かれた二連祭壇画は、ボッティチェッリが師から学んだ事の総括であろう。1枚目の《ホロフェルネスの居たい発見》では、人物像の明快な造形性、鮮やかな色彩、場面の強調された表現性において、まだポッライオーロの様式への参照が顕著である。この1番目のエピソードを特徴づけるドラマ性と暴力は、2番目のエピソード《ベトゥリアに帰還するユーディット》では完全に消え去っていて、むしろ牧歌的で「リッピ風の」様式である。 1473年から1474年にかけて制作された《東方三博士の礼拝》はアナモルフォーシス画法の一例である。この作品を見るには、それを水平に置く必要がある。 1470年代にボッティチェッリの様式は既に概観を十分に示している。後に続く彼の作品はメディチ家の重鎮からの大型委嘱によるもので、人文主義的・哲学的主題によって豊かさを増していく。
※この「1470年代の作品」の解説は、「サンドロ・ボッティチェッリ」の解説の一部です。
「1470年代の作品」を含む「サンドロ・ボッティチェッリ」の記事については、「サンドロ・ボッティチェッリ」の概要を参照ください。
- 1470年代の作品のページへのリンク