麦食縮小以降、脚気が増加する海軍
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「日本の脚気史」の記事における「麦食縮小以降、脚気が増加する海軍」の解説
高木の思いに反して兵員には、「銀しゃり」という俗語のある白米飯に比べて麦飯も不評であり、1890年(明治23年)2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ないし麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2割5分まで低下した。 学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の脚気患者が発生しただけであり、後述する陸軍の脚気惨害と対照的であった。当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっている」とされるような状況であった。ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚気の入院率が50%〜70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気の入院率は数%)。その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医ではなく、栃木県出身で東京帝国大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。 脚気患者の増加を受けて海軍省では、1921年(大正10年)に「兵食研究調査委員会」を設置し、1930年(昭和5年)まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない麦飯で麦の比率を上げることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しい中、苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。1927年(昭和2年)から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は1933年(昭和8年)9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。島薗の胚芽米の提唱には、脚気に対する胚芽米の研究を行っていた香川昇三と香川綾らの研究が役に立っていた。しかし、胚芽米を作る機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が多発する夏に供給するのが困難であったことから、現場で研究の成果が十分に現れず、脚気患者数は、1928年(昭和3年)1,153人、日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下回ることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)は3,079人(うち入院605人)であった。また、現場で炊事を行う主計科では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコ」(船乗りのジャーゴンで「海面に let's go」の意という))ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛けた。 戦前、「海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型まで統計に上るようになった事」(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)と指摘されていた。また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、タンパク質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰が崩れたこととの指摘もある。
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