近衛経忠の失脚と北畠親房の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
「楠木正行」の記事における「近衛経忠の失脚と北畠親房の台頭」の解説
興国2年/暦応4年(1341年)5月、南朝の左大臣近衛経忠が、北朝が占拠する京都へ赴くという事件が発生した。この事件は「藤氏一揆」と称され、かつては、経忠の個人的権力欲からの行動と見なされていたが、1955年の高柳光寿の指摘以降は、和平派である経忠の和平交渉の一貫であった可能性が大きいとされている(ただし、21世紀初頭の研究者でも、亀田俊和は経忠和平派説を疑問視している)。 また、岡野友彦の主張では、楠木氏の代々の厭戦傾向からして、正行も和平派であり、経忠と手を組んでいたのではないかという。論拠の第一に、『太平記』より信頼性の高い『梅松論』では、建武の乱において父の楠木正成が尊氏との講和に積極的で、後醍醐天皇に和平を進言したとされることが挙げられる。第二には、正行の死後に楠木一族(弟の楠木正儀)が南朝内の和平派を主宰したことが挙げられる。そして、先代当主と次代当主が和平派であるからには、中間の正行の代の楠木氏も和平派寄りであると考えるのが自然であろうとした。 経忠(および岡野説では正行)ら和平派が中央で勢力を増したことによって、常陸国(茨城県)で戦う北畠親房との間に亀裂が走り、東国における南朝勢力は衰えていった。高柳は、主戦派の親房を批判し、和平派である(と高柳が推定する)経忠の方を「現実派」として高く評価した。南朝の「苦境」という歴史的結果から見る限りでは、和平派の方に理があるように見える。しかし、親房の評伝を著した岡野は、藤氏一揆が発生するまでは、実際は南朝の方が常陸国では優勢であったと反論する。 岡野は、後醍醐天皇崩御後に不安と厭戦気分にかられた南朝中央政府が、地方の南朝軍の合意を取り付けずに独断で和平工作に動き出し、この南朝内での不協和音のせいで親房は急に劣勢に立たされたのだとする。興国2年/暦応4年(1341年)5月を境に、親房が結城親朝を調略するための音信の形式が「御教書」(公的で尊大な命令)からただの「書状」(私的で丁重な依頼)に転落して、親房の苦境が形に現れており、これは藤氏一揆の時期と全く一致する。また、親房が実際に経忠派からの妨害工作を受けていたと見られる形跡を指摘する。つまり、親房の常陸での敗北は必然ではなく、和平派=悲観派の蔓延による自己実現的なものであったと主張した。 経忠に背中から刺された形になった親房は、興国5年/康永3年(1344年)春、吉野行宮に帰還した。一般に、「東国で敗北し逃げ帰った」と称されるが、岡野は、親房にとっての当時最大の敵は東国の北朝軍ではなく南朝内の和平派であり、近衛経忠と楠木正行ら和平派の影響を中央政界から払拭するために吉野に拠点を移したのではないか、と推測している。親房は遅くとも興国7年/貞和2年(1346年)11月13日までに准大臣に任じられ(宮内庁書陵部本『日本書紀』奥書)、経忠を制して南朝の実権を握った。
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