足利尊氏の発掘
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後醍醐天皇が勅撰を命じた『続後拾遺和歌集』で抜擢された武家歌人には、まだ「高氏」と名乗っていた頃の若き足利尊氏もいた。尊氏は前回の『続千載和歌集』のときにも二条家に和歌を送っていたのだが、その時は不合格で入撰せず、送った和歌が突き返されてきた。そこで、後醍醐天皇の時代に「かきすつるもくづなりとも此度は かへらでとまれ和歌の浦波」という和歌を送ったところ、今度は二条為定の眼に止まり、採用となったのである(歌の大意:どうせ私の和歌など、紀伊国和歌の浦で掻き集めて捨てる藻屑のように、書き捨てた紙屑だから、和歌の浦の波のように返ってくるのだろうが、どうか今度こそは返却されずに採用されて欲しい)。 なお、森茂暁は、『続後拾遺和歌集』が四季部奏覧された正中2年(1325年)という時期に着目し、これは正中の変で後醍醐天皇の鎌倉幕府転覆計画が発覚し、多数の手駒を失った翌年に当たるから、後醍醐の側で目ぼしい武士に恩を売って、少しでも反幕勢力を増やしたいという政治的意図があったのではないか、と推測している。また、尊氏の側でも、政治的意図はまだ後醍醐ほどには強くなかっただろうにせよ、二条家の背後にいる後醍醐に接近したいという想いがあり、両者で利害が一致した結果の採用なのではないか、とも推測している。ただし、2000年代後半以降、河内祥輔らによって、正中の変では後醍醐は倒幕を考えておらず、本当に冤罪だったとする説も唱えられている(詳細は当該項目参照)。 いずれにせよ、尊氏が後醍醐天皇から受けた影響は、単なる政治的なものには留まらず、歌学上でも後醍醐の意志を引き継いで二条派を振興した。南北朝の内乱が発生し、足利氏内部の実権が弟の足利直義に移った後、北朝(持明院統)で最初に勅撰された光厳天皇の『風雅和歌集』は京極派寄りであり、一時的に二条派は衰えた。しかし、観応の擾乱で直義に勝利し将軍親政を開始した尊氏は、幕府・北朝安定政策の一貫として、北朝の後光厳天皇に『新千載和歌集』を執奏した。ここで尊氏は、自分が最初に入撰した『続後拾遺和歌集』の時の撰者である二条為定を、再び撰者に推薦した。さらに、五摂家の一つ九条流二条家の当主で連歌の大成者でもある二条良基(これまで登場してきた御子左流二条家とは別の家柄)は、有職故実研究者としての後醍醐天皇を尊敬しており、皇統から言えば京極派であるはずの後光厳天皇にも、後醍醐天皇系の二条派を学ぶように説得し、後光厳天皇もこれに納得して二条派に転じた。こうして、尊氏・良基の努力により、『新千載和歌集』の撰者には再び二条派の為定が復帰した。 後醍醐天皇の二条派は最終的に京極派に勝利し、京極派が南北朝時代中期に滅んだのに対し、二条派は近世まで命脈を保った。その著名な伝承者としては、南朝の宗良親王や北朝の頓阿・兼好法師、室町後期の宗祇・三条西実隆、戦国時代の三条西公条・三条西実枝・細川幽斎などがいる。幽斎の門下からは智仁親王・中院通勝らの堂上派と松永貞徳らの地下派に分かれて江戸時代に続き、江戸中後期には地下派の香川景柄(1745–1821年)の養子となった香川景樹(1768–1843年)が古今伝授の権威主義を批判し、二条派を発展的に解消して、その後継として実践を重んじる桂園派を新たに創始した。さらに明治時代には明治21年(1888年)に宮内省の部局御歌所の初代所長となった桂園派の高崎正風らが御歌所派を形成して、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した。
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