じみょういん‐とう〔ヂミヤウヰン‐〕【持明院統】
持明院統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/17 04:58 UTC 版)
持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第89代後深草天皇を始祖とする。のちの北朝を経て、現在の皇室に連なる。
注釈
出典
- ^ 基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で幕府により三上皇(後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇)が配流、そして仲恭天皇が廃位になった為、守貞親王の子である茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった(守貞親王には太上天皇の尊号が贈られ、後高倉院と称した)。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を仙洞御所として居住した。後堀河天皇の系統が途絶えると、その皇女室町院の遺領(室町院領)とともに、伏見上皇がこの邸宅を継承した。そして、伏見院の子孫も持明院殿を仙洞にするようになる。
- ^ 河内・新田 2018, p. 160.
- ^ 野口・長村・坂口 2022, p. 177.
- ^ 河内・新田 2018, p. 166.
- ^ 秦野 2020, p. 34.
- ^ 深津 2014, p. 6.
- ^ 飯倉 2015, p. 13.
- ^ 深津 2014, p. 34.
- ^ 野口・長村・坂口 2022, p. 212.
- ^ 秦野 2020, p. 36.
- ^ 秦野 2020, pp. 39–40.
- ^ 秦野 2020, pp. 56–57.
- ^ 秦野 2020, pp. 58–64.
- ^ 秦野 2020, pp. 68–69.
- ^ 深津 2014, pp. 219.
- ^ 秦野 2020, p. 72.
- ^ 秦野 2020, pp. 79–83.
- ^ 秦野 2020, p. 88.
- ^ 秦野 2020, pp. 94–95.
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- ^ a b 秦野 2020, p. 222.
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- ^ 秦野 2020, p. 221.
- ^ 田村 2018, p. 4(1672).
- ^ 田村 2018, p. 15(1683).
- ^ a b 深津 2014, p. 39.
- ^ 池和田有紀「崇光天皇」『室町・戦国天皇列伝 後醍醐天皇から後陽成天皇まで(久水俊和・石原比伊呂編)』、戎光祥出版、2020年、pp.162-164。
- ^ a b c d 三木太郎「『椿葉記』より見たる持明院統分裂の原因 ‐長講堂領以下の所領を中心として‐」1953。
持明院統
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鎌倉幕府の介入により二代五辻宮となった深草宮は、元徳元年(1329年)9月には、北条守時によって五辻の館と備前国草部郷の領地を安堵されたが、その後、五辻の館のみ元の所有者であった守良親王に戻された。建武の新政が失敗に終わると、足利尊氏により、建武3年(1336年)8月に再び所領を安堵された。 貞治6年(1367年)の頃には久明親王の孫・祥益が「五辻親王家」と呼ばれている(『天竜寺重書目録』)が、深草宮や祥益が親王宣下を受けた記録は残っていない。その後は暫時衰微したらしい。
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