たかさき‐まさかぜ【高崎正風】
高崎正風 たかさき まさかぜ
鹿児島生まれ。歌人。鹿児島藩士高崎温恭の長男。父はお由羅騒動といわれる藩の内紛のために切腹、正風は流島となるが、のち許されて鹿児島に戻り、以後国事に奔走した。明治4年(1871)新政府に出仕。22年(1889)に宮中顧問官、28年(1895)に枢密顧問官を歴任。また、21年(1888)から45年(1912)まで御歌所長を勤め、明治天皇の歌を点した。正風の聞書きを集めた『高崎正風演説筆記』(1901)、『歌ものがたり』(1912)が編纂されている。
キーワード | 文学者, 官僚 |
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- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- ちごのをしへ / 高崎正風述 十一堂, 明21.4 <YDM10910>
- 紀元節歌の解 / 坂正臣記 ; 高崎正風述 青白堂,松成堂, 明21.6 <YDM72890>
- 和寿礼かた美 / 高崎正風編 吉川半七, 明22.4 <YDM86891>
- 天長節歌解 / 高崎正風述 ; 坂正臣記 吉川半七, 明24.11 <YDM73347>
- 難四之可他延 / 三条実美著 ; 高崎正風編 高崎正風, 明26.3 <YDM86379>
- 高崎正風大人講話筆記 / 高崎正風述 ; 山本行範記 中西嘉助, 明30.3 <YDM205241>
- 高崎正風演説筆記 / 高崎正風述 ; 遠山稲子記 三上庄次郎, 明34.8 <YDM201900>
- 歌ものがたり / 高崎正風著 ; 遠山稲子編 東京社, 明45.5 <YDM85640>
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高崎正風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/12 00:29 UTC 版)
高崎 正風(たかさき まさかぜ、1836年9月8日(天保7年7月28日 ) - 1912年(明治45年)2月28日は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、作詞家、歌人。通称は左太郎、他に伊勢、左京、豊麿とも。号は宝義堂。長男元彦は日露戦争で戦死し、その跡は正光、正人と続く。
注釈
出典
- ^ a b c d e 北里 1959, p. 761.
- ^ a b 北里 1959, p. 67.
- ^ 北里 1959, p. 51.
- ^ 北里 1959, p. 52.
- ^ 北里 1959, p. 65.
- ^ a b 北里 1959, p. 69-73.
- ^ 北里 1959, p. 76.
- ^ a b 北里 1959, p. 78-80.
- ^ 北里 1959, p. 82.
- ^ a b 北里 1959, p. 84-91.
- ^ 北里 1959, p. 114.
- ^ 北里 1959, p. 136-139.
- ^ 薩摩藩における「へし児」の風習と施策--出水,大隅・垂水地域を中心に - CiNii
- ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
- ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office 1875
- ^ 高崎元彦(読み)たかさき もとひこコトバンク
- ^ 芝山孝豊『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『官報』第354号「叙任及辞令」1884年9月1日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2110号「叙任及辞令」1890年7月12日。
- ^ 『官報』第5013号「叙任及辞令」1900年3月22日。
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ a b 『官報』第8606号「叙任及辞令」1912年2月29日。
- ^ 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
- ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第1971号「彙報」1890年1月27日。
- ^ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
- ^ 「元帥海軍大将子爵伊東祐亨外四十六名外国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112637600
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