貿易と輸入銭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
平安時代の中期から戦国時代にかけての硬貨の普及は、中国からの銅貨がきっかけとなった。平氏が推進した日宋貿易は鎌倉幕府の時代でも続いた。鎌倉幕府は出挙の返済に宋銭の使用を禁じるが、13世紀前半には輸入銭は絹や布が持っていた価値尺度の機能を果たし始めた。13世紀後半には米にも取って代わり、鎌倉幕府は輸入銭の流通を認めるようになった。平安末期から鎌倉時代にかけては日本産の銅や鉛の生産がされておらず、12世紀から14世紀の輸入銭は梵鐘などの銅製品の材料としても使われた。13世紀に中国で成立した元は、紙幣の交鈔を流通させるために貴金属の私的な取引を禁じ、銅貨の国内流通も禁止された。このため銅貨輸出が増加して、日本には日元貿易によって輸入銭が入った。 鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて幕府や朝廷による貨幣の発行は行われなかった。中国にならって、硬貨と紙幣をともに流通させる計画もあった。後醍醐天皇は建武の新政において、乾坤通宝という新貨を銅貨と楮幣(ちょへい)という紙幣で発行すると宣言したが、政権の崩壊によって実現しなかった。 元の次に明の時代に入ると、日明貿易によって宋銭や明銭が流入した。室町幕府は博多商人の肥富と祖阿らを使者として明との国交を回復し、遣明船を派遣する。遣明船からの利益は、ほかの財源である土倉酒屋役や段銭などと比べて巨額であり、室町幕府の財政規模は朝廷や寺社を大きく上回った。明では外国への銅貨の流出が懸念されて、室町幕府からの朝貢に対する回賜に紙幣を用いることもあった。しかし日本では銅貨での受け取りを求めて、中国紙幣は国内では流通しなかった。地域によって好まれる銅貨に違いがあり、永楽通宝は関東や九州で好まれたが畿内では人気がなく、洪武通宝は九州で好まれた。足利義満の時代には明から1万5千貫文の回賜を得ていたが、明は使節に銅貨を贈ることをやめたため、足利義政の時代には輸入銭を得られなくなった。
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