解散危機の発覚まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:49 UTC 版)
「SMAP解散騒動」の記事における「解散危機の発覚まで」の解説
ジャニーズ事務所は、メリー喜多川とジャニー喜多川の姉弟によって設立されたアイドル主体の芸能事務所である。業務形態はジャニーが所属タレントのプロデュース、メリーが事務統括やメディア対応などをそれぞれ分担しており、この基本型は2人の最晩年まで変わっていなかった。事務所は1980年代にたのきんトリオや光GENJIなどのヒットで成功を収めるが、1990年頃に音楽業界・テレビ業界の転換期が訪れた。バンドブームの到来、歌番組に出ない実力派アーティストの台頭がステータス化する状況などが生まれ、各局の歌番組は視聴率に苦しみ軒並み終了する事態に陥る。結果、歌番組への出演が最大の宣伝になっていたアイドル業界そのものが氷河期に入るとともに、ジャニーズの勢いにも陰りが見え、弱小事務所への転落の危機にあった。 SMAPもデビュー当時、セールス面で表立った結果を残すことが出来ず、マネジメント面でも大々的な露出をすることが少なくなっていた。当時事務職をしていた飯島三智がこれを見かね、「自分がSMAPの世話をする」と志願しマネージャーへ転属する。飯島は、それまでのアイドル界では畑違いと見られていたバラエティや主演・主要役以外でのドラマにも積極的にメンバーを進出させ、結果的に世間の認知度が上がると共に本業のアイドル業でも成果を挙げ、見事SMAPを大スターに押し上げた。事務所も後輩タレントを同様のメソッドで売り出すことによりヒットを連発し、息を吹き返したのち業界最大手に上り詰めた。さらに、飯島の手法によりアイドルの守備領域の拡大やアイドルの寿命を飛躍的に上げるなど、芸能界のアイドル観を根本から変えるまでに至った。 メリー、ジャニー姉弟は飯島を事務所の恩人として厚遇し、いずれ2人の後を継ぐ副社長・藤島ジュリー景子(メリーの一人娘。以下「ジュリー」と記述)の代でも飯島は大番頭としてジュリーを支え、ジャニーズは安泰と思われていた。ジュリーと飯島の仲も非常に良好であり、ジュリーは飯島を頼りにしていた。しかし年を経るにつれて、メリーが飯島に警戒感を抱くようになる。それは、ジュリーと飯島のタレントマネジメント能力に格段の差があったためである。ジュリーは飯島の手法を真似てTOKIOや嵐など後輩グループのマネジメントを行っていたが、実質の業務は他のスタッフに任せきりで、タレントや仕事先の人望も飯島に対する全てにおいて明らかに劣っていた。メリーは娘の将来を案じ、次第に飯島を危険視するようになっていく。不穏な空気を察知したジャニーは、子会社のジェイ・ドリームを設立した上で飯島に経営を委ね、飯島がメリーを気兼ねせずに仕事ができる環境を整え、両者の関係の軟化を図った。さらに、2010年にKAT-TUNのマネジメントを飯島に移管したのを皮切りに、若手グループを次々と飯島にゆだねた。しかし、メリーの目には飯島がジャニーの権威を嵩に着て権力を伸ばしているようにしか見えず、猜疑心はさらに激化した。やがて、テレビ番組でもジュリー管轄のタレントと飯島管轄のタレントとの共演が原則ご法度になるなど、事務所の活動に大きな影響が出る事態に至ったと言われている。 決定的な亀裂が生まれたのは、『週刊文春』2015年1月29日号掲載のメリーに対するインタビューであるとされる。ジャニーズ事務所は芸能界での実権を握って以降、タレントの番組出演やカレンダー販売などの利権をばらまくことによって自己に不利益な報道をしないよう仕向けていたが、週刊文春はジャニーズ事務所のメディアコントロールの傘下に組み込まれていない、数少ないメディアであった。そのインタビュー内でメリーは、週刊文春がジュリーのことを「次期社長『候補』」と呼んでいる点を指摘し、「次期社長は決まっている」と後継者がジュリーであることを正式に認めた。更に「派閥など存在しない」「実在しない『派閥』があると思わせるようなことがあったとしたら、飯島を注意します。今日、辞めさせますよ」と断言。直後、インタビューが行われていた事務所ビル2階の会議室に飯島を急遽呼び出し、現れた飯島に対して「SMAPは踊れない」「飯島に踊りを踊れる子を預けられない」とまで言い放った上で、飯島に対しては「『派閥』争いがあるのか?」と詰問、飯島が「ありません」と答えるも、「もしそれが事実なら、SMAPを連れて事務所を出なさい。私はジュリーを残し飯島は辞めさせます」などと述べた(このインタビューは「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」の第22回大賞を受賞している)。これをきっかけとして、飯島はジャニーズ事務所には顔を出せなくなった上、真剣にSMAPを連れてジャニーズ事務所から独立しようと水面下で画策せざるを得ないこととなる。ジャニーは当然飯島とSMAPの離脱には反対であったが、メリーの不信感が自身にも向かっていたため慰留を断念したという。 その他、同年のNHK『第66回NHK紅白歌合戦』の司会選考を巡り、「飯島がNHKに対して独自交渉で同紅白の司会(白組司会・総合司会)にSMAPもしくは木村をごり押ししたが、メリーが自派のタレント総引き揚げをちらつかせて断念させた」とする報道もなされたが、NHKの三溝敬志エンターテインメント番組部長は定例会見で自ら否定している。 その後、飯島は『芸能界のドン』と称される田辺エージェンシー社長の田邊昭知を頼り、自身とSMAPの移籍・引き受けを依頼する。水面下でジャニーズ事務所と田辺エージェンシー側とで話し合いが持たれ、飯島とSMAPは2016年9月の契約更新時期を以って事務所を退社、田辺エージェンシーの系列であるケイダッシュへの移籍話が纏まったとされ、関連作品やグループ名の使用権、コンサートの興行権などの利益配分などの交渉を双方の弁護士が進めるまでに至っていた。この時点において、メンバー個人の売り上げは中居がトップで5億、次が木村で3億であったとされる。しかし5人全員の移籍で話は進んでいたが2015年に数回行われたジャニーズ事務所と弁護士を混じえた聞き取りでは中居は保留を選び移籍を迷っていた。さらに木村は当初より事務所残留を選択していた事から飯島の思惑は外れ、5人全員での移籍を前提としていた移籍話は頓挫した。
※この「解散危機の発覚まで」の解説は、「SMAP解散騒動」の解説の一部です。
「解散危機の発覚まで」を含む「SMAP解散騒動」の記事については、「SMAP解散騒動」の概要を参照ください。
- 解散危機の発覚までのページへのリンク