西鉄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:04 UTC 版)
1972年、西鉄ライオンズにトレードで移籍。既に引退して西鉄の監督に就任していた稲尾和久は、「榎本の洗練された技術と打撃理論は、まだ若い西鉄の選手たちの生きた手本になる」と考え期待を寄せていた。榎本も稲尾のこの意図を汲み「今後は一兵卒として監督の手助けをしていく」と発言し、「榎本は選手としてのピークを過ぎて前にも増して気難しくなり、奇行を繰り返しているようだ」との話を耳にしていた西鉄の首脳陣を安堵させたという。しかし若手選手たちには榎本の打撃理論は難解すぎ、その理論と直結している技術もほとんど伝わらなかった。失望した榎本は若手への指導を諦め、試合前の練習中に客席から「それ、頑張れ」と大声を上げて稲尾らを困惑させるなど、次第に自暴自棄にも見える態度を取るようになっていった。 選手としては主に代打の切り札として起用され一定の成績を残したが、オリオンズ時代の輝きを取り戻すには至らず、同年に現役引退。通算2314安打は、引退時はパ・リーグ記録で、プロ野球史上では川上哲治に次いで歴代2位であった。また、背番号3番を18シーズンにわたって使用したが、これはパ・リーグ史上最長記録である(日本プロ野球史上最長記録は立浪和義の22年)。
※この「西鉄時代」の解説は、「榎本喜八」の解説の一部です。
「西鉄時代」を含む「榎本喜八」の記事については、「榎本喜八」の概要を参照ください。
西鉄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:46 UTC 版)
報徳商業ではエースで4番を打ち、中央大学、西日本鉄道を経て、1950年に西鉄が新設したプロチーム・西鉄クリッパースへ入団。1年目の同年から打率.279、22本塁打をマーク。 3月16日の東急戦(大須)では武末悉昌の代打で保井浩一から3ラン本塁打を放ち、初本塁打を記録。この試合は、深見が打った7回表の攻撃前まで既に16-2とワンサイドゲームで、東急も投手がいないのか4回途中で野手の保井が急遽登板したものの、西鉄は追加点を挙げてゆき7回表には深見の3ランと原田晃の適時打で4点を取り20-2とし、ここから東急も猛反撃をみせたものの21-14で西鉄が大勝。両チーム合計1試合最多得点の試合として現在でも記録として残っている。深見に打たれた保井はこの試合が投手としての唯一の登板であり、唯一の被本塁打でもある。
※この「西鉄時代」の解説は、「深見安博」の解説の一部です。
「西鉄時代」を含む「深見安博」の記事については、「深見安博」の概要を参照ください。
西鉄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 04:33 UTC 版)
1968年には田中勉との交換トレードで西鉄ライオンズに移籍。20勝できる投手が欲しかった中日側の希望によるトレードであったが、サンケイがデーブ・ロバーツを交換相手に田中を狙っているとの情報を察知した中日は、将来復帰させるからと広野を説得して送り出している。同年は開幕から4番・左翼手として起用されるが、6月初めに故障欠場し、8月には復帰するも規定打席には届かなかった。 1969年には一塁手に回って復活し、自己最多の20本塁打を放ったほか、自身唯一のオールスターゲーム出場も果たす。 1970年は黒い霧事件で野球に嫌気がさして不調に陥り、打率.188と低迷する。
※この「西鉄時代」の解説は、「広野功」の解説の一部です。
「西鉄時代」を含む「広野功」の記事については、「広野功」の概要を参照ください。
西鉄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:36 UTC 版)
1950年 -1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」に変わった以外、変更点はない。1950年は帽子のマークは黄色の「N」と紺の「C」の組み合わせで、翌1951年はペットネーム変更により「L」となった。 1951年 - 1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。 1952年 - 1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」のブラックレター(飾り文字)が登場。 1954年 - 1961年 - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」はiの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは1960年から1961年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。1960年には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。 1962年 - 1965年 - ホーム用のラインをWラインに変更。また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。 1966年 - 1968年 - ユニフォームにオレンジ色を採用(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。左袖にはエジプト壁画風のライオンマークが登場。球団史上初の背ネームを採用。1968年途中にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり、左袖には立ち姿のライオン(西鉄グランドホテルのマークと同デザイン)を入れた紋章風ワッペンを装着。 1969年には背ネームが除外。番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後は練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していた榎本喜八がビジター用を着ている写真が残っている)。 1970年には左袖に足を1本突き出すライオンのイラストワッペンを装着。ビジター用がブルーグレーに変更、また、ビジター用の胸のロゴが1951年から1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更される。 1971年 - 1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。これが西鉄最後のユニフォームとなった(なお、太平洋クラブライオンズ初年度の1973年春季キャンプ、オープン戦までは引き続き西鉄のユニフォームを着用していた)。
※この「西鉄時代」の解説は、「埼玉西武ライオンズ」の解説の一部です。
「西鉄時代」を含む「埼玉西武ライオンズ」の記事については、「埼玉西武ライオンズ」の概要を参照ください。
- 西鉄時代のページへのリンク