菊池恵楓園の四大事件
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「国立療養所菊池恵楓園」の記事における「菊池恵楓園の四大事件」の解説
本妙寺事件 1940年(昭和15年)、熊本市本妙寺周辺の患者集落を、警官や療養所の職員が襲撃し、患者157人を強制収容する事件が起こり、重症患者以外は他療養所に移送された(本妙寺事件)。無らい県運動やらい根絶20年計画でも、動きが鈍かった熊本で、計画された本格的運動で、内田守は来るべき戦争を見据えた一環のものと考えている。計画は光田健輔にも相談された。 潮谷総一郎の「本妙寺癩窟」によると患者の多くは相愛更生会という秘密結社に入っていて、北海道から台湾朝鮮に至るまで、2名一組で寄付を強要する、やらないと、「伝染させるぞ」と居直る。その解決のためでもあった。また、本妙寺と九州療養所や星塚敬愛園などの長い腐れ縁を絶つためでもあったろう。収容された人々は重症患者8名を除いて他施設に送られた。 懲罰的意味もあったか、楽泉園に送られた患者は重監房に入っているが、そこでなくなられた方はない。他の園に患者を送った理由の一つは回春病院の患者を引き取ることが既に計画されていたと考える人もいる。 詳細は「本妙寺事件」および「本妙寺 (熊本市)」を参照 藤本事件 別名。菊池事件。第2次無癩県運動のさなかに起こった事件。 詳細は「藤本事件」を参照 龍田寮事件 別名黒髪校事件。菊池恵楓園内の保育園は、回春病院の跡地(龍田寮)に1941年に移動した。患者の子供(所謂未感染児童)が58名(幼児26名、小学生23名、中学生7名、高校生2名)となった。学校の教師は僅か一人であった。恵楓園長宮崎松記や、事務長は13年間粘り強く交渉して、一般の小学校中学校へ通学するようにした。 1954年に黒髪小学校に通学できることになったが、同校PTAの一部ものにより、入学が阻止された事件である。1年生4名が熊本大学皮膚科を受診、1名が要観察となった。1年間、同校区内で紛糾を重ね、自主授業や集会などが繰り返された。調停を行い、熊本商大山崎守雄学長が児童を引き取り通学させることになった。黒髪校区PTA会長による政治がらみの事件で、同じ校区の桜山中学はこういう事件は発生していない。 その後龍田寮の児童生徒は、児童養護施設や、親戚に引き取られ一般の小中高校に入学した。またその地で、同じような事件が起こりそうになった。なお、熊本地方法務局の調査によると、同じ条件の保育園では、このような事件はおこっていないという。 詳細は「龍田寮事件」を参照 宿泊拒否事件 別名アイスター事件 詳細は「ハンセン病元患者宿泊拒否事件」および「連続大量差別はがき事件」を参照 ハンセン病への偏見がきたした事件。事件が公表され、ハンセン病に対する偏見から差別文書が園に大量に届いている。なお、「ふるさと訪問事業」は県が主催して行う事業の一つであるが、これはハンセン病行政のうち、内務省が行っていた警察行政が戦後、地方自治体に移行したからである。 県は「らい指定医」を指定し、入所までの収容その他の指示をする。退所したあとの世話もみる。また、留守家族への世話もする。ふるさとを持たない入所者、また生家があるものの、様々な事情から郷里に帰れない入所者もいる。人によっては、友人・家族の住居の近くまでいって、涙して帰るものもいる。もちろん、旧友と再会を楽しむ入所者も多い。それらの総称が「ふるさと訪問事業」である。 患者ら一行が旅行行事の一環としてホテルを予約したが、ホテルは宿泊を拒否。熊本県知事はホテル名を発表した。当時の自治会会長は、この発展を予測していたという。宿泊を拒否したホテルはその後廃業。施設は解体され現存しない。その後、自治会に差別文書が多数きて「差別文書つづり」を製本した。 その後、園や障害者団体などに対し、差別はがきが送られてきた事件も発生している。
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