宮崎松記とは? わかりやすく解説

宮崎松記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/30 01:40 UTC 版)

宮崎 松記(みやざき まつき、1900年明治33年)1月10日 - 1972年昭和47年)6月14日)は、日本の医学者国立療養所菊池恵楓園の園長を勤め、その後インドで救らいセンターを作った。ハンセン病研究・患者の治療を行い、「日本のシュヴァイツァー」と呼ばれた。熊本県八代市日奈久町生まれ[1]位階従三位


  1. ^ 宮崎 松記とは”. コトバンク. 2021年1月17日閲覧。
  2. ^ 杉村春三『らいと社会福祉』(2007)
  3. ^ 戦争と癩 レプラ 1948
  4. ^ 林芳信 『回顧50年』 昭和54年 70頁
  5. ^ 桜井方策著 『光田健輔の思い出』 ルガール社 1974,
  6. ^ インド救ライ病院の充実に 宮崎院長が帰国『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月19日朝刊 12版 15面
  7. ^ a b 『インドのおじいちゃん ありがとう』 宮崎松記没後20年記念 1992
  8. ^ 『菊池恵楓園50年史』(1960) 菊池恵楓園 熊本


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宮崎松記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 17:12 UTC 版)

ハンセン病に関連した人物」の記事における「宮崎松記」の解説

宮崎松記(1900-1970) 熊本県八代市生まれ第5高等学校学生時代リデル回春病院にいきハンセン病興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長昭和9年九州療養所所長本妙寺事件龍田寮事件などに関与した昭和26年参議院において、隔離政策強化主張。のちに発言取り消したが、菊池恵楓園入所者数は彼が辞職して初め減少転じた学問的には、戦争とらいを研究し戦争中らいを発病した場合は、結核発病した同様な取扱いとさせた。菊池恵楓園拡大し、らい研究所分室つくったが、あまり予算をとったので他から憎まれた。昭和33年、恵退職その後、JALMA Japan Leprosy Mission of Asia設立インドアグラにらいセンター作り援助活動をした。日本航空機事故ニューデリー殉職

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