家族へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 17:12 UTC 版)
翌1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起こり、燁子は炎上する中野邸を一家と共に逃れ、駒込の松平邸へ避難した。余震が続く中、宮崎家から滔天の書生であった松本蔵次が、結核で動けない龍介に代わって衣類と握り飯を持って駆けつけて来た。中野家では宮崎家の真情に打たれ、柳原家からは何の連絡もなく、これ以上監禁する大儀は無いとして、燁子を松本に託して龍介の元に戻した。地震の混乱が続く中、着の身着のまま線路沿いを歩き通した燁子は北豊島の宮崎家にたどり着き、待っていた龍介と抱き合った。香織は翌日龍介の母・槌子が中野家に迎えに行き、出奔事件から2年を経て、ようやく一家は一つになったのである。 義光が結婚を許さない事から、龍介が東京地方裁判所に自分が香織の父である事を確認する訴えを起こし、同年10月19日その主張が認められる。そして子供のためとして一家での同棲生活が始まる。同じ頃、燁子の出産をめぐり、宮内省から再三に渡って法律上は自分の子として入籍するよう迫られた伝右衛門が、1歳の香織が実子でない事を証明する嫡出子否認の訴えを起こしている。伝右衛門は精子検査を受け生殖不能である事を証明し、香織は伝右衛門との婚姻中に孕まれた不義の子である事が法的に明かにされた。「出奔」だけではなく「姦通」が明らかとなり、また「最近再び情人の下に走り、公然同棲」したとして、1923年(大正12年)11月16日、宮内省より燁子の華族からの除籍が発表された。京都で判を押していた燁子と龍介の婚姻届が提出されたのは、事件から4年を経た1925年(大正14年)になってからの事だった。
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