良房から実頼までとは? わかりやすく解説

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良房から実頼まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:51 UTC 版)

摂関政治」の記事における「良房から実頼まで」の解説

冬嗣の子藤原良房は、皇位継承迭立である状況において、842年当時仁明天皇実子であり自らの甥かつ婿である道康親王皇太子立てることに成功承和の変)し、道康文徳天皇)の即位により確固たる地位得た857年には良房太政大臣就任した当時太政大臣太政官全て管轄し天子師範たる職とされ、その職掌は後に摂関吸収されることになる。文徳天皇良房の娘の子である清和天皇即位すると、良房9歳天皇の外祖父となる。866年応天門の変において伴・紀両氏失脚させると、良房人臣初の摂政任じられる良房死後養子藤原基経権力継承し876年清和が子の陽成天皇9歳)に譲位すると、陽成の母高子の兄である基経摂政となる。884年基経高子仲違いもあり、基経陽成廃位主導し、自らの従兄弟年配の光孝天皇即位させ、基経事実上関白就任した良房摂政就任時に清和天皇は既に元服してたように、この時期摂政関白職権違い定かでなく、これに関連して887年に、光孝の子宇多天皇即位に際して基経関白任じようとする勅文に基経不服唱える阿衡事件起こっている。母が班子女王である宇多藤原氏血縁薄かったが、基経出仕拒む基経をおそれる多く官吏がそれに倣って政務滞ったため、宇多天皇その影響力に屈して基経権勢認めることとなった891年基経が死ぬと、基経嫡子藤原時平が若いこともあって宇多天皇以後関白置かず菅原道真登用して藤原氏への牽制図った寛平の治)。宇多醍醐天皇譲位した後も摂関を置かせず、時平道真を共に内覧当てたが、時平901年道真左遷へ陥れ、宇多法皇介入排除した昌泰の変)。単独内覧となった時平延喜の治支え手腕発揮したが、39歳死去したこともあり摂政関白には就任していない。 次の摂政関白就任者は時平の弟の藤原忠平である。930年醍醐天皇危篤となると、幼い朱雀天皇への譲位同時に摂政任じられた。続いて941年天皇成人すると、忠平は摂政辞表提出したが、改め関白任命された。同時代記録から確認される天皇成人に伴う摂政から関白への地位異動はこれが初めての例であり、今日では天皇幼少時には摂政成人後関白になる例はこの時に誕生した考えられている。 忠平の死後村上天皇親政天暦の治が行われ、摂政関白の座は空位となった醍醐天皇延喜の治村上天皇天暦の治後世においては、摂関置かれ天皇親政行った時代として理想視されることになるが、実際に当時摂政関白は非常置地位でしかなかったために任命すべき事情なければ空位とされる官職であったこと、摂政関白置かれていなくても忠平の長男藤原実頼左大臣一上)として国政運営していたことなど、藤原北家良房流が国政掌握する構造自体変化があった訳ではなかった。村上天皇崩御により、病弱政務遂行難しかった冷泉天皇即位すると、藤原実頼関白就任し続いて太政大臣准摂政に任ぜられる。以後後醍醐天皇による建武の新政時期などの例外除いて明治維新まで摂政関白常置されることとなる。

※この「良房から実頼まで」の解説は、「摂関政治」の解説の一部です。
「良房から実頼まで」を含む「摂関政治」の記事については、「摂関政治」の概要を参照ください。

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