良房から実頼まで
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冬嗣の子の藤原良房は、皇位継承が迭立である状況において、842年に当時の仁明天皇の実子であり自らの甥かつ婿である道康親王を皇太子に立てることに成功(承和の変)し、道康(文徳天皇)の即位により確固たる地位を得た。857年には良房が太政大臣に就任した。当時の太政大臣は太政官の全てを管轄し天子の師範たる職とされ、その職掌は後に摂関に吸収されることになる。文徳天皇と良房の娘の子である清和天皇が即位すると、良房は9歳の天皇の外祖父となる。866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させると、良房は人臣初の摂政に任じられる。 良房の死後、養子の藤原基経が権力を継承し、876年に清和が子の陽成天皇(9歳)に譲位すると、陽成の母高子の兄である基経は摂政となる。884年、基経と高子の仲違いもあり、基経は陽成の廃位を主導し、自らの従兄弟で年配の光孝天皇を即位させ、基経は事実上の関白に就任した。良房の摂政就任時に清和天皇は既に元服していたように、この時期の摂政と関白の職権の違いは定かでなく、これに関連して887年に、光孝の子の宇多天皇が即位に際して基経を関白に任じようとする勅文に基経が不服を唱える阿衡事件が起こっている。母が班子女王である宇多は藤原氏と血縁は薄かったが、基経が出仕を拒むと基経をおそれる多くの官吏がそれに倣って政務が滞ったため、宇多天皇はその影響力に屈して基経の権勢を認めることとなった。 891年に基経が死ぬと、基経の嫡子の藤原時平が若いこともあって宇多天皇は以後関白を置かず、菅原道真を登用して藤原氏への牽制を図った(寛平の治)。宇多は醍醐天皇に譲位した後も摂関を置かせず、時平と道真を共に内覧に当てたが、時平は901年に道真を左遷へ陥れ、宇多法皇の介入を排除した(昌泰の変)。単独の内覧となった時平は延喜の治を支える手腕を発揮したが、39歳で死去したこともあり摂政・関白には就任していない。 次の摂政・関白の就任者は時平の弟の藤原忠平である。930年に醍醐天皇が危篤となると、幼い朱雀天皇への譲位と同時に摂政に任じられた。続いて941年に天皇が成人すると、忠平は摂政の辞表を提出したが、改めて関白に任命された。同時代の記録から確認される天皇の成人に伴う摂政から関白への地位の異動はこれが初めての例であり、今日では天皇が幼少時には摂政、成人後は関白になる例はこの時に誕生したと考えられている。 忠平の死後、村上天皇の親政(天暦の治)が行われ、摂政・関白の座は空位となった。醍醐天皇の延喜の治と村上天皇の天暦の治は後世においては、摂関が置かれず天皇が親政を行った時代として理想視されることになるが、実際には当時の摂政・関白は非常置の地位でしかなかったために任命すべき事情がなければ空位とされる官職であったこと、摂政・関白が置かれていなくても忠平の長男藤原実頼が左大臣(一上)として国政を運営していたことなど、藤原北家の良房流が国政を掌握する構造自体に変化があった訳ではなかった。村上天皇の崩御により、病弱で政務の遂行が難しかった冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白に就任し、続いて太政大臣・准摂政に任ぜられる。以後、後醍醐天皇による建武の新政の時期などの例外を除いて、明治維新まで摂政・関白が常置されることとなる。
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