阿衡事件とは? わかりやすく解説

あこう‐じけん〔アカウ‐〕【阿衡事件】

読み方:あこうじけん

仁和3年(887)、宇多天皇即位した際、藤原基経関白とする勅書の中の「よろしく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」の語について、基経阿衡は位のみで職掌伴わないとして政務行わず、ついに天皇勅書書き改めた事件


阿衡事件

読み方:アコウジケン(akoujiken)

平安前期政治的事件

別名 阿衡の紛議


阿衡事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 21:38 UTC 版)

阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経宇多天皇の間で起こった政治紛争である。阿衡の紛議とも呼ばれる。先代の光孝天皇の時代のように引き続き政務を執るよう求めた詔勅を基経が形式的に辞退した後、天皇は改めて詔勅を下した。しかし基経は、詔勅中の「阿衡」の語は名ばかりで実権のない職を指すと抗議し、一切の公務の遂行を放棄した。天皇は二度目の詔勅を撤回するなど対応に苦慮したが、最終的には妥協が成立した。


注釈

  1. ^ 11月21日詔書「其万機巨細、百官惣己。皆関白於太政大臣、然後奏下、一如旧事」(其れ万機巨細、百官己に惣べよ。皆太政大臣にあづかまうし、然して後に奏し下すこと、一に旧事の如くせよ)[3]
  2. ^ 天皇により高級官僚に任じられた者は一旦形式的にその着任を辞退し、その後天皇が改めて任じ、受諾する慣例があった。また基経自身も陽成天皇即位時の摂政就任を2度に渡って辞退している[4]
  3. ^ 翌27日基経の辞表に対する勅答「宜以阿衡之任為卿之任」[2]

出典

  1. ^ 古藤真平 2011, p. 359.
  2. ^ a b c d e 古藤真平 2011, p. 356.
  3. ^ a b 瀧浪貞子 2001, p. 47.
  4. ^ 瀧浪貞子 2001, p. 39.
  5. ^ 滝川幸司 2019, p. 132.
  6. ^ 池田晃淵『平安朝史』早稲田大学出版部、1906年 p.258、国立国会図書館デジタルコレクション影印 135コマ目。しかし典拠は不明である。
  7. ^ a b c d 古藤真平 2011, p. 357.
  8. ^ 滝川幸司 2019, p. 116.
  9. ^ 滝川幸司 2019, p. 116-117.
  10. ^ 古藤真平 2011, p. 357、363.
  11. ^ 古藤真平 2011, p. 357-358.
  12. ^ a b c 古藤真平 2011, p. 358.
  13. ^ a b 滝川幸司 2019, p. 125.
  14. ^ a b 瀧浪貞子 2001, p. 49.
  15. ^ 滝川幸司 2019, p. 85-87.
  16. ^ 滝川幸司 2019, p. 88.
  17. ^ 滝川幸司 2019, p. 119.
  18. ^ 滝川幸司 2019, p. 118.
  19. ^ 『奉昭宣公書 菅丞相讃州刺史時』日本古典文学大系 72 川口久雄 校注『菅家文草 菅家後集』岩波書店、1966年 p.622 に附載)
  20. ^ 滝川幸司 2019, p. 127-128.
  21. ^ 滝川幸司 2019, p. 126-127.
  22. ^ 滝川幸司 2019, p. 127.
  23. ^ a b 古藤真平 2011, p. 373-374.
  24. ^ 滝川幸司 2019, p. 133-134.
  25. ^ 滝川幸司 2019, p. 134.
  26. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 佐藤誠實博士(1839-1908)手校蔵本、阿波国文庫旧蔵 影印 93コマ。
  27. ^ 瀧浪貞子 2001, p. 48.
  28. ^ a b 滝川幸司 2019, p. 115.
  29. ^ a b 瀧浪貞子 2001, p. 46-50.
  30. ^ 佐々木宗雄「摂政制・関白制の成立」(『日本歴史』610号、1999年)


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阿衡事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:08 UTC 版)

宇多天皇」の記事における「阿衡事件」の解説

詳細は「阿衡事件」を参照 宇多即位間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相起草した宜し阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言基経立腹し政務拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ勅書取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年891年1月基経死去する及んで宇多はようやく親政開始することができた。なお宇多勅願寺として仁和寺建立したのは、この阿衡事件の最中仁和4年のことである。

※この「阿衡事件」の解説は、「宇多天皇」の解説の一部です。
「阿衡事件」を含む「宇多天皇」の記事については、「宇多天皇」の概要を参照ください。

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