昌泰の変とは? わかりやすく解説

昌泰の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 22:20 UTC 版)

昌泰の変(しょうたいのへん)は、昌泰4年1月25日901年2月16日)、左大臣藤原時平讒言により醍醐天皇右大臣菅原道真大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件[1]


  1. ^ 第60代・醍醐天皇の皇位継承と昌泰の変”. WEB歴史街道 (2020年5月18日). 2020年12月29日閲覧。
  2. ^ 藤原忠平の子・藤原師輔の日記『九暦』天暦4年6月15日条には、入内は為子の生前から時平と天皇の間で進められていたが、宇多法皇が穏子の入内に強く反発して為子の没後まで入内が認められず、その子保明親王立太子にも強く反対したという。師輔は宇多法皇側近の忠平の子で、穏子の庇護を受けていたことから、穏子を巡る事情に通じていた可能性が高い。
  3. ^ 宇多法皇自身も時平の妹の1人である藤原温子女御としているが、疎遠であったと言われている。なお、醍醐天皇の外祖父藤原高藤藤原基経の従兄弟であるが、その父が早世していたために官位に恵まれず、病死直前に天皇の外祖父という理由で内大臣に任じられたという経歴のために政治的な影響力は無かった。
  4. ^ これについては道真の冤罪説が強いが、この事件当時の醍醐天皇には穏子所生を含めて男子はいなかったことが注目される。宇多法皇が元良親王らを牽制するために、早い時期に次期皇位継承者を定めようとすれば当時男子のいなかった醍醐の弟の中で最年長者(第二皇子斉中親王は既に薨去)である第三皇子斉世親王の立太子が有力視され、しかも『寛平御遺誡』には宇多上皇自らが醍醐天皇の立太子の際に道真にのみ意見を求めたことを記している。宇多法皇が斉世親王を立太子して皇位継承の安定化を図った場合、当然自己の子孫への直系継承を望む醍醐天皇とは対立が生じることになる。たとえ道真自身に斉世親王擁立の考えが無かったとしても、醍醐天皇からその疑惑を持たれる可能性は十分にあったのである。なお、斉世親王は道真左遷直後の2月2日に出家している。
  5. ^ 政事要略』所収のこの日の宣命において、醍醐天皇は道真が寒門から大臣に上げてもらったにもかかわらず、それに飽き足らず専権の野心を抱いて、宇多法皇を欺き騙して天皇廃立を企んで親子の慈しみを離間させ、兄弟愛を激波(破壊)したと非難している。醍醐天皇は父への非難は避けているものの、親子兄弟間の確執が実際にあったことを認めている。
  6. ^ 『政事要略』巻22


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昌泰の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:08 UTC 版)

宇多天皇」の記事における「昌泰の変」の解説

宇多譲位後道真後ろ盾となり、時平独走防ごうとしていたが、一方で仏道熱中し始めた昌泰2年899年10月24日には出家し東寺受戒した後、仁和寺入って法皇となった。さらに高野山比叡山熊野三山にしばしば参詣し道真援助十分に行えなくなった詳細は「昌泰の変」を参照 昌泰4年901年正月道真宇多の子で自らの婿でもある斉世親王皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府左遷された。この知らせ受けた宇多急遽内裏向かったが、宮門固く閉ざされその中で道真処分決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多自己の皇統安定のために醍醐皇太子決定急ぎ結果的に当時男子のいなかった醍醐後継をその弟から出すことを考えようになった加えて醍醐許した基経の娘・藤原穏子入内にも反対したために、これに反発した醍醐時平図って法皇代弁者みなされ道真失脚させたという説を提示している。それでも晩年には病気がち醍醐天皇に代わって、実際政務をみていた可能性もあると考えられている。 延喜元年昌泰4年改元12月13日宇多受戒の師を益信として東寺伝法灌頂受けて真言宗阿闍梨となった。これによって宇多弟子僧侶取って灌頂授け資格得た宇多弟子になった僧侶彼の推挙によって朝廷法会参加し天台宗比べて希薄であった真言宗朝廷との関係強化地位の向上資した。そして真言宗発言力高まり宇多朝廷への影響力回復させる足がかりになったとされる延喜21年921年10月27日醍醐から真言宗開いた空海に「弘法大師」の諡号贈られているが、この件に関する宇多直接関与証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇宇多)が空海追憶している事を理由にあげている。 延喜13年3月13日913年4月22日)には後院亭子院大掛かりな歌合亭子院歌合」を開いた。これは国風文化盛行流れ後押しするものとなった延喜11年911年6月15日亭子院水閣開いた時、臣から酒豪選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦)。 承平元年7月19日931年9月3日)に崩御宝算65日記に『宇多天皇御記』がある。

※この「昌泰の変」の解説は、「宇多天皇」の解説の一部です。
「昌泰の変」を含む「宇多天皇」の記事については、「宇多天皇」の概要を参照ください。

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