義満と日本国王冊封とは? わかりやすく解説

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義満と日本国王冊封

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 15:50 UTC 版)

日本国王」の記事における「義満と日本国王冊封」の解説

室町幕府最初外交中国の王朝が元から明に代わる直前1366年貞治元年)に倭寇禁圧求め高麗使節来日したのが最初である。当時北朝高麗使節が元の征東行中書省からの咨文(しぶん)と箚付(さっぷ)を持参したことから、かつての元寇などを理由使節受け入れ拒否したが、2代将軍足利義詮五山派禅僧である春屋妙葩を仮に僧録資格与えて交渉当たらせるとともに自らも使者引見した。だが、朝廷北朝)が使節受け入れ拒絶していたため、義詮正式な回答高麗側に与えることができず、春屋妙葩名義世尊寺行忠の執筆によって非公式な返書与えている(『善隣国宝記』・『鹿王院文書』)。 義詮の後を継承した足利義満は、日明貿易一元支配望み1374年応安3年以来数次わたって使節を送る。明朝側としても倭寇取り締まる能力ある日本の支配者との通交の必要はあったものの、儒学復興叫ばれていた当時日本国王として冊封された懐良親王の上表文持たない使者来貢認めない方針を採り、足利氏日本君主ではなく「持明」(持明院統天皇のこと。明朝は「持明」を「良懐」(懐良親王)と日本王位争っている人物名解釈していた)の臣下の「将軍にすぎないことを理由に、通交拒否していた(『明太祖実録洪武7年6月乙未条及び同13年9月甲午条)。しかし、1380年発覚した明の左丞相大臣胡惟庸謀反と、当時辞官出家していた義満が、天皇臣下という立場をとらずに通交試みようとした結果1401年応永8年)、「日本准三后道義」の表文携えて派遣され使節はついに目的果たし、「日本国王源道義」宛の建文帝在位1398年1402年)の詔書携えて明使とともに帰国した義満北山第に明使を丁重に迎え、自ら拝跪(はいき)して詔書受けたという。 ところが、明使の滞在中、靖難の変1399年1402年)により成祖永楽帝在位1402年1424年)が即位義満永楽帝宛てて国書送った即位して間もなく簒奪者との謗り受けていた永楽帝は、「外夷」からの使節到来を自らの天子としての徳を証明するものとして喜び義満に「日本国王之印」と通交必要な勘合符与えた。 こうして義満は「日本国王」の称号獲得し中華皇帝臣従する外臣として認知され華夷秩序における国王として承認された。これにより足利家勘合貿易主導権握った

※この「義満と日本国王冊封」の解説は、「日本国王」の解説の一部です。
「義満と日本国王冊封」を含む「日本国王」の記事については、「日本国王」の概要を参照ください。

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