義満と日本国王冊封
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室町幕府の最初の外交は中国の王朝が元から明に代わる直前の1366年(貞治元年)に倭寇禁圧を求める高麗の使節が来日したのが最初である。当時の北朝は高麗の使節が元の征東行中書省からの咨文(しぶん)と箚付(さっぷ)を持参したことから、かつての元寇などを理由に使節受け入れを拒否したが、2代将軍足利義詮は五山派の禅僧である春屋妙葩を仮に僧録の資格を与えて交渉に当たらせるとともに自らも使者に引見した。だが、朝廷(北朝)が使節の受け入れを拒絶していたため、義詮は正式な回答を高麗側に与えることができず、春屋妙葩の名義、世尊寺行忠の執筆によって非公式な返書を与えている(『善隣国宝記』・『鹿王院文書』)。 義詮の後を継承した足利義満は、日明貿易の一元支配を望み、1374年(応安3年)以来数次にわたって使節を送る。明朝側としても倭寇を取り締まる能力のある日本の支配者との通交の必要はあったものの、儒学復興が叫ばれていた当時、日本国王として冊封された懐良親王の上表文を持たない使者の来貢を認めない方針を採り、足利氏が日本の君主ではなく「持明」(持明院統の天皇のこと。明朝は「持明」を「良懐」(懐良親王)と日本の王位を争っている人物名と解釈していた)の臣下の「将軍」にすぎないことを理由に、通交を拒否していた(『明太祖実録』洪武7年6月乙未条及び同13年9月甲午条)。しかし、1380年に発覚した明の左丞相(大臣)胡惟庸の謀反と、当時辞官出家していた義満が、天皇の臣下という立場をとらずに通交を試みようとした結果、1401年(応永8年)、「日本准三后道義」の表文を携えて派遣された使節はついに目的を果たし、「日本国王源道義」宛の建文帝(在位1398年~1402年)の詔書を携えて明使とともに帰国した。義満は北山第に明使を丁重に迎え、自ら拝跪(はいき)して詔書を受けたという。 ところが、明使の滞在中、靖難の変(1399年~1402年)により成祖永楽帝(在位1402年~1424年)が即位。義満は永楽帝に宛てて国書を送った。即位して間もなく、簒奪者との謗りも受けていた永楽帝は、「外夷」からの使節の到来を自らの天子としての徳を証明するものとして喜び、義満に「日本国王之印」と通交に必要な勘合符を与えた。 こうして義満は「日本国王」の称号を獲得し、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王として承認された。これにより足利家が勘合貿易の主導権を握った。
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