義満と義弘の対立とは? わかりやすく解説

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義満と義弘の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:12 UTC 版)

応永の乱」の記事における「義満と義弘の対立」の解説

応永元年1394年義満将軍職嫡男義持譲り太政大臣昇る。もちろん、実権掌握したままだった。応永2年1395年)には太政大臣辞して出家し道義称した諸大名公家こぞってこれに追従して出家し義弘もまた出家したこの頃までは義満義弘の関係は良好だったが、応永4年1397年)、義満北山第造営始め諸大名人数供出求めた。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士弓矢をもって奉公するのである」とこれに従わず義満不興買った同年末、義弘少弐氏討伐命じられ筑前戦い弟の満弘が討死するがその子への恩賞沙汰無く不満を募らせ義満が裏で少弐氏菊地氏に義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。 応永5年1398年)、来日した朝鮮使節から義弘莫大な進物受け取っていたことを斯波義将らが「義弘朝鮮から賄賂受け取っている」と義満讒言し、それが義弘聞こえて激怒させている。大陸との貿易推進を図る義満にとっても朝鮮と強いつながりを持つ義弘存在目障りなものになった義満は度々義弘上洛催促するが、「和泉紀伊守護職剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ義弘不安にさせた。 追い込まれ義弘鎌倉公方足利満兼密約結んだ。この密約今川了俊仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題解任され遠江駿河半国守護左遷されていた。さらに義弘は、先年土岐康行の乱没落していた美濃土岐詮直明徳の乱滅ぼされ山名氏清嫡男宮田時清、近江京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山興福寺衆徒楠氏楠木正勝とその二子の正盛(正顯)・正堯)・菊地氏(菊池肥前守=菊池武照もしくは菊池兼朝)ら旧南朝方と連絡をとり挙兵うながした

※この「義満と義弘の対立」の解説は、「応永の乱」の解説の一部です。
「義満と義弘の対立」を含む「応永の乱」の記事については、「応永の乱」の概要を参照ください。

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