義満死後を主導とは? わかりやすく解説

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義満死後を主導

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:20 UTC 版)

斯波義将」の記事における「義満死後を主導」の解説

応永15年1408年)の義満死後は子の義重を管領職に推し宿老として4代将軍足利義持補佐する形で重用された。義満後継には公家社会などから義持の弟・足利義嗣支持されたが、義将はそれを事前に押さえている。さらに朝廷からの義満に対して太上天皇追贈先例のない事を理由辞退させ、日明貿易勘合貿易)の停止勧めるなど、義満死後にその政策批判した動きをとる。更に応永16年1409年6月7日には、出家の身で4度目5度目)の管領就任(『教言卿記』他)し、8月1日には11歳の孫の義淳に管領を譲ることで斯波氏による幕政支配目指したものの、それから程なく応永17年1410年5月7日没。享年61法名は法苑寺殿道将雪渓人々はその死を「当世武門の重人也。一家愁傷か」と悼んだ伝えられる(『柳原家記録』)。 京都における義将本邸室町通勘解由小路にあったため、勘解由小路殿(かでのこうじどの)と通称された。彼以降斯波家当主代々左兵衛督、または左兵衛佐任官したため、同家武衛兵衛府唐名)家の名称で呼ばれるうになると、それによって勘解由小路邸も武衛陣呼称された。現在の京都においても旧武衛付近一帯平安女学院周辺)を武衛陣町呼び、その名を今に伝えている。また、武家家訓竹馬抄』の著者別人説あり)としても知られる義将死後、孫の義淳は管領解任され、甥の満種(義種の子)が加賀守護を解任されるなど徐々に斯波氏勢威下降していく。

※この「義満死後を主導」の解説は、「斯波義将」の解説の一部です。
「義満死後を主導」を含む「斯波義将」の記事については、「斯波義将」の概要を参照ください。

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