緊急疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:01 UTC 版)
「樺太の戦い (1945年)」の記事における「緊急疎開」の解説
ソ連軍侵攻時の南樺太には、季節労働者を加えて約40万人、一説によると45-46万人の民間人が居住していた。ソ連の参戦後に北海道への避難が始まったが、多くの民間人が戦禍に巻き込まれて被害を受けた。 8月9日のソ連の対日参戦後、大津樺太庁長官と鈴木第88師団参謀長、黒木海軍武官の三者が前述の事前協定を確認し、北海道への民間人の避難作業が始まった。といっても@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}具体的な事前計画が無かった[疑問点 – ノート]ので、樺太庁長官主催で樺太鉄道局と船舶運営会が加わった緊急輸送協議会が開かれたものの、輸送計画が決まって各市町村へ通達されたのは12日になってからだった[疑問点 – ノート]。 立案された計画では、本土避難の対象者は65歳以上の男性と41歳以上の女性[疑問点 – ノート]、14歳以下の男女とされ[疑問点 – ノート]、16万人を15日間で移送することが目標だった。この選別基準には、戦力とならない足手まといを片付ける意図と、食糧不足や冬季に渡る野外行動が予想されるために体力の弱い者から優先避難させるという意図があった。大泊を主たる乗船地として稚泊連絡船「宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻を使用するほか、本斗から稚斗連絡船「樺太丸」と小型艇30隻、真岡からも貨客船「大宝丸」などを運航することに決まった。陸上では乗船地に向けた緊急疎開列車の運転とトラック輸送が行われた。また、乗車船は戦災地、避遠地を優先し、船車賃は無料であった。 避難指示を受けた住民は、乗船地を目指して列を成した。多くの住民は、尼港事件の再現となるのではないかと恐怖していたという。 8月13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、8月16日に真岡、8月18日には本斗からも緊急疎開船が出始めた。本斗には貨物船「能登呂丸」や海防艦が追加投入された。避難民側の準備が間に合わなかった大泊第1便を除くほか、定員の数倍ずつ乗船するなど、急ピッチで海上輸送が進められた。しかし、真岡は8月20日にソ連軍に占領されて使用不能となり、本斗も危険なため運用断念された。最終的に8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達され、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。この間8月22日に「小笠原丸」「泰東丸」「第二号新興丸」の3隻が、北海道沿岸で国籍不明潜水艦の攻撃で撃沈破され、計1,708人が死亡する三船殉難事件が発生している。ソ連潜水艦による攻撃であると推定されている。同じ日に「能登呂丸」も樺太へ向かう途中、宗谷海峡でソ連機の空襲を受けて撃沈された。 結果、目標の約半数にあたる76,000人が島外への緊急疎開に成功したとみられている。その後の密航による自力脱出者約24,000人を合わせても、南樺太住民の1/4以下だけが避難できたことになる。市町村単位で見ると、42市町村のうちで疎開が完了したのは8町村のみであった。『戦史叢書』は、今日思うと避難の決行時期があまりにも遅かったと評している。急な避難指示で準備が間に合わず、第1便の「宗谷丸」は乗船定員を割り込み、軍や官庁の関係者が多くを占める事態も起き、満州の疎開列車での類似事例と並んで後日非難されることにもなった。
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