第4次作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:14 UTC 版)
第3次作戦より先に実行された。そのため本項目も先に記す。 第6船団:香椎丸・金華丸・高津丸 第1護衛部隊:沖縄・占守・海防艦第11号・13号 第1警戒部隊:霞・秋霜・潮・朝霜・長波・若月 第26師団主力を輸送船3隻(香椎丸・金華丸・高津丸)で輸送、この3隻と海防艦4隻は第二次輸送部隊に参加した艦艇である。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦:霞)の指揮下、駆逐艦6隻(朝潮型〈霞〉・吹雪型〈潮〉・夕雲型〈秋霜・朝霜・長波〉・秋月型〈若月〉)と海防艦4隻(沖縄・占守・第11号・13号)に護衛された第四次輸送部隊は、11月8日午前マニラを出港する。第一師団の残余を乗せた第四船団は夕刻マニラを出撃した。パラオ方面に発生した熱帯低気圧がフィリピンに接近しており、天候は悪化しつつあった。 同日、豊田連合艦隊司令長官は第一遊撃部隊指揮官・栗田健男第二艦隊司令長官(旗艦:大和)に「第一遊撃部隊ノ大部ヲ率ヰ第三次輸送船団ノ泊地入泊ニ策応『スルー』海又ハ『ミンダナオ』海方面ニ進出 輸送船団ノ間接護衛ニ任ズ」(GF電令作第08号、8日11時21分発電)と下令した。栗田艦隊は2日前に入港した空母隼鷹から弾薬の補給を受けていた。第一遊撃部隊は8日未明にブルネイを出撃し、翌日にはスルー海に進出した。レイテ沖海戦での損害が大きかった重巡洋艦利根は隼鷹隊(隼鷹・木曾・夕月・卯月)に同行し、マニラに向かった。 この日に第4航空軍が護衛機として準備できたのは、飛行第200戦隊(通称「皇戦隊」)の四式戦闘機「疾風」わずか8機であり、しかも途中からは、僚機の7機とはぐれてしまった吉良勝秋曹長機1機となってしまった。吉良機は途中で酸素ボンベが破裂してしまったため高度を下げるため降下していると、そこで船団を攻撃に来た「P-38」10数機と鉢合わせになり、吉良機は単機で10数機の「P-38」から船団を護ることとなった。しかし、経験豊富な吉良は、「P-38」が高空では優速で手強いが、低空では旋回性能が劣るために戦いやすいことを熟知しており、低空の空戦に持ち込んで2機を返り討ちにして、見事に船団を護りきり、第26師団の兵員は無事にレイテ島に上陸できた。司令官の富永恭次中将は輸送船団に乗船していた部隊からこの報告を聞くと、とても喜んで、すぐに吉良を司令部に呼んで自ら面談し「船団前で、敵10数機と単機よく戦い、2機を撃墜、友軍の士気を高めること大であった。吉良、よくやった。只今より准尉に進級させる」と熱く語りかけ、すぐさま青鉛筆で「赫々たる武勲を賞し、特に准尉に進級せしむ」という階級の特進状を書いて吉良を感激させている 11月9日、第四次輸送部隊はオルモック湾口で空襲をうけた。被害は輸送船2隻小破で、18時15分にオルモック着、揚陸を開始した。30分後には第四船団の輸送艦3隻もオルモックに到着した。ところが、オルモックはすでにアメリカ軍重砲隊の射程にはいっており、船団は沖合に停泊せざるを得なかった(揚陸地点をイビルに変更)。さらに事前に用意していた50隻以上の大発は台風の高波で多くが砂に埋もれ、揚陸には5隻しか使用できなかった。高津丸搭載の大発も空襲による損傷で使えなくなっており、揚陸作業は難航する。そこで、吃水の浅い海防艦を大発動艇のかわりに使用した。また揚陸作戦にはセブ島の大発動艇部隊が協力していたが、第四次輸送部隊揚陸日には抜兵団(第102師団)海上機動任務のためセブ島に帰って分散しており、一部しか協力できなかった。 翌11月10日午前10時30分頃、第四次輸送部隊は揚陸作業を打ち切り、マニラに向け出港した。人員は全て揚陸したが、兵器弾薬などの揚陸は若干にとどまった。第26師団は装備の欠乏と糧食の不足に悩まされ、最終的にレイテ島上陸部隊は壊滅したとみられる。 第四次輸送部隊は出港直後、オルモック湾でB-25爆撃機35機の空襲を受け、高津丸と香椎丸が沈没、海防艦11号が航行不能のため味方により処分される。また金華丸と駆逐艦秋霜が損傷した。帰路で第三次輸送部隊(早川少将)とすれ違うときに、四次部隊の駆逐艦3隻(若月・長波・朝霜)と三次部隊の駆逐艦2隻(初春・竹)を入れ替えた。第四次輸送部隊は11日夜にマニラへ戻った。 陸軍航空隊はのべ42機が出動し、13機を喪失。第二飛行師団の出動可能機は戦闘機19(四式戦闘機12・三式戦闘機4・複戦1・一式戦闘機2)・襲撃機5・双軽3・司偵6に減少。夕刻、飛行第54戦隊の増援11機が到着した。
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