稲田家
稲田家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 08:35 UTC 版)
(鳥取県米子市紺屋町・米子市久米町、東京都) 『新修 米子市史 第五巻 民俗編』によれば、 「因幡屋稲田家は、延宝年代(1673年~1680年)以前に因幡から伯耆の大寺村(現岸本町大寺)へ移り、元禄のころには米子で酒造業を営んでいる。米子での初代は因幡屋半兵衛(延享三年没)で、二代七左衛門(元文二年~文化六年)、三代喜右衛門(宝暦一二年~文政七年)、四代嘉右衛門(寛政七年~明治一八年)、五代喜右衛門(改喜重郎、天保七年~明治四二年)と続いている。」。 『米子商業史』によれば、 「紺屋町で酒造業、質商を営んだ因幡屋稲田家は、昭和9年(1934年)同家七代目藤治郎が記した稲田家系図によると、延宝年代(1673年~1680年)以前、因幡から大寺村に移って、生業に従事していたが、元禄のころ米子に移り、岩倉町から尾高町に落ち着いた。米子の初代は因幡屋半兵衛で、古い祖先の墓が飯生村にあったのを、菩提寺の安国寺に移したという。半兵衛は延享3年(1746年)没。18世紀の70~80年代に、紺屋町に移って酒造業を開始した。 四代嘉右衛門は、明治18年(1885年)84歳で没するまで長命を保ったが、営業を拡大し、町年寄その他公職を奉じ、苗字帯刀を許された。華道、茶道の趣味もあり、菩提寺鐘楼の建立や、荒尾家への資金用立などにその財力を示した。 幕末から明治にかけて五代目嘉右衛門(嘉重郎)、六代目秀太郎もそれぞれ、町の政財界に重きをなした。醸造業は酒・醤油のほか、明治中期にはビール製造にも着手した。 継母・いわ 安政4年6月生 - 没 兄・秀太郎(鳥取県平民、稲田家六代目) 妻・きぬ(門脇良英二女) 明治7年(1874年)5月生 - 没 長男・勇太郎) 明治28年(1895年)2月生 - 没。住所は東京都世田谷区太子堂。 三男 恭三 明治32年生まれ(湯浅坂本法律特許事務所).四男 謙吉(軍人川井氏へ養子) 明治33年生まれ宗教は曹洞宗。 同妻・ルイ(太宰一郎妹) 明治39年(1906年)10月生 - 没 男・千秋(天野芳太郎の養子になる) 庶子男・譲(生母・鳥取県平民間瀬春野)
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