秀吉在世時における「取次」の例
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「取次 (豊臣政権)」の記事における「秀吉在世時における「取次」の例」の解説
1582年(天正10年)5月の高松城対陣(備中高松城の戦い)以降、中国地方への取次として黒田孝高・蜂須賀正勝が取次の任にあたり、中国国分交渉を行って毛利氏の服属を促進させた。1585年(天正13年)には紀州攻めにおいて同年3月に予定していた雑賀攻めの出陣命令を両者が伝えている。同年8月には四国攻めで降伏した伊予の諸城を両名が一度接収した後に領主となった小早川隆景への引き渡しを行っている。この後、正勝は四国取次となり、孝高は1591年(天正19年)ごろ失脚して中国取次としての動きが見られなくなった。関ヶ原の戦いにおける毛利家の分裂は、同時に、黒田・蜂須賀-吉川ラインと石田-安国寺ラインの対立でもあった。取次内容については戦国的であり、豊臣政権の取次とは異なるとの批判がある。 1582年(天正10年)から1585年(天正13年)の豊臣秀長の大和入国まで、伊藤掃部助が大和の領主である筒井順慶・定次の取次であったとされる。ただし史料的に「取次」と記録された文献資料はない。 1585年(天正13年)に秀吉が関白となった頃から毛利氏に対しては豊臣秀長が取次的役割を果たしていたといわれる。 1586年(天正14年)9月、家康服属前には上杉景勝に関東以北の取次が命ぜられた。 1586年(天正14年)11月、徳川家康が秀吉に臣従し、上杉と相談の上で関東方面の取次が命ぜられた(ただし取次との史料なし)。その後、北条・伊達など関東以北の大名への働きかけは家康が中心となり上杉の関与は減っていった。 その他、家康の他にも富田一白、津田盛月、施薬院全宗、和久宗是らが取次として働いたが、家康同様に対伊達政策等で宥和的態度を取っており、石田三成・増田長盛などの強硬派と対立した。特に富田と津田は小田原征伐による決裂により失脚した。 1586年(天正14年)、前田利家は南部信直の取次となり、服属を促進させた。後に取次は浅野長政となる。 1587年(天正15年)に比定される6月文書では毛利輝元が備中の代わりに豊前・筑前・筑後・肥後の四カ国を与えられて九州取次となる構想が秀吉から示されたが実現せず、小早川隆景が伊予から筑前に転封されるに留まった。 1587年(天正15年)に九州征伐が終わり、島津義久が服属すると石田三成と細川藤孝が取次となった。島津義弘は豊臣政権の軍役に応じない家臣の状況を三成へ訴え、恫喝を交えた催促を三成より引き出して戦国的分権状態から近世的な集権強化に利用している三成の家臣安宅秀安もたびたび島津に対して政策指導を行い、政権への動員等の対応を促進させている。 1590年(天正18年)、北条滅亡後は蒲生氏郷が奥州方面の取次と位置づけられたと考えられ、また1593年(文禄2年)まで増田長盛が下野・常陸・安房の大名への取次となった。 統一過程を担当した大々名による取次は移行し、東国取次の浅野長政、九州取次の寺沢広高、佐竹・島津氏取次の石田三成等による秀吉側近による政権統合後の大名統制体制が整った。 小西行長は宗義智や文禄・慶長の役で北九州の与力諸将を率いたことから、これらの取次であるといわれている。しかし、単なる縁戚関係と現地の軍事指揮だけでは取次とは言えないとの指摘がある。 1592年(文禄元年)に文禄の役が始まることから、九州大名や出兵大名に対して寺沢広高が取次の働きをしており、秀吉から命令を九州や朝鮮の大名へ取り次いでいる。他にも兵站命令を島井宗室、神屋宗湛などの商人に伝えることもあった。また、秀吉死後に五大老からの撤退命令を朝鮮所掌へ取り次いだのも広高であり、長崎奉行も兼任していたため豊臣政権末期において九州統治の枢要に存在した。 1593年(文禄2年)11月、甲斐を宛われた浅野長政・幸長は伊達氏・南部氏らを与力として服属させ、取次を任された。 1596年(文禄5年)伊達政宗が取次であった浅野長政に対して数々の対応不満を理由に絶縁状を送りつけ、取次関係を大名側から破棄した。
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