甲陽の文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 07:48 UTC 版)
「甲陽学院中学校・高等学校」の記事における「甲陽の文化」の解説
精神 法華経、白鹿酒造、自然環境(海、浜、川、山、空)と密接な関係があり、その精神は、「在野精神」、「起業精神」と評されている。 「甲陽 (KOYO)」を用いた様々な術語が成立を見るなど、独自の言語世界を有する。イギリスのパブリックスクール、イートン・カレッジやハーロー校に通じる精神を持つといわれる。 創立百周年の2017年度には、第四代校長丸谷喜市の詩をもって、第11代校長今西昭により、「さやけさ」がその精神として示された。 理念 孝養心を秘めた識見高い青年の輩出を目指す。銘酒の醸成のように、焦らず競わず衒わず長期的展望に立った人間教育を方針とする。1978年の校舎移転時には、当時の理事長の辰馬龍雄は、「百年への布石」として、「教育は人類繁栄の基礎であります。」という言葉を残し、小河清麿校長は、「照千一隅(照于一隅)」の額を校長室の壁に掲げ、教育の理念を確かめた。 教育 中学では、その後の「型」となるような教育を受け、高校では、全面的に自主性を任せられる。生徒、学生の自主性を重んじており、教員からの押し付けではなく、先輩の姿を見て後輩が学んでいくといったやり方で人間性を磨いていく。 教職員は、一人の人間に対し、目は離さないが干渉せず、失敗さえも黙って見守る。生徒の内発的なものの萌芽、内なるものの開花を辛抱強く待つ。 数学教育については、固有のスタイルを完成させており、哲学者の重久俊夫に「数学モノカルチャー」と形容されるほど数学への取り組みが抜きんでている。 食 甲陽では創立以来、食を大切にしている。旧制時代では食堂棟を独立に設け、著名な料理人が経営、当時にしてカレーライス、ハヤシライス、日替わりランチがメニューに存在していた。2020年に、白鹿との共同で「甲陽学院カレー」という商品が開発され、白鹿の直営店やオンラインショップにて販売されている。 同窓生 本学院は時代に阿らずずっと変わらないことが重要であるとしており、苦悩し、傷心したときに立ち上がるための力が得られる「母港」であろうとしている。 卒業後は、積極的な母校訪問を期待している。学校訪問、補習、講演、甲陽だよりなど様々な繋がりを通して、教職員、在校生を支え、薫陶する。 同窓会には、「君子の交わりは淡きこと水の如し」、「同窓会を政治や商売などの場にしない」、「社会上の肩書きは捨てあくまで甲陽人として」などの理念がある。ネットを通して世界中で地域甲陽会を作り、地域交流を図ることを目的としている。 学術 法華経の原理(桜梅桃李、日蓮御義口伝)、日本酒酒造、阪神間地域、自然環境を背景に、独自の学術文化が醸成してきた。 地域学 地域の文化(地域学)には当地に固有の私学の風土が介在している。 1947年(昭和22年)に甲陽史学会が結成され、現在まで地域研究、自学史研究などの分野で業績を残してきた。この会の目的には、本学院を地域(阪神間)に根差したものにするということもあった。甲陽史学会が阪神間地域学研究の一つのルーツとなっている。文教都市西宮市において文教の振興に貢献してきた。 甲子園球場 甲子園時代、校地の南隣に阪神甲子園球場が建設されたため、グラウンドは出場校の練習場としても使われていた。当時、阪神タイガースとグラウンドで合同練習をしていたこともあったという。2021年夏の第103回全国高等学校野球選手権大会では、甲陽学院卒業の医学生のバッテリーが始球式を務めた 旧制時代の進学と入試 現在でいう大学に相当する学校(旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校など)にほとんどの者が進学した。主な進学先は京都帝国大学、大阪帝国大学をはじめとする帝国大学、神戸商業大学、関西学院高等商業学校、同志社大学、慶應義塾大学、早稲田大学などであった。医師、外交官、教育者、芸能家、作家、実業家、政治家、博士、プロスポーツ選手、法曹家など様々な方面で人材を輩出した。なお、旧制中学は5年制である(第二次大戦末期は4年制)。 入試は2日間あり、1日目に国語と算術、2日目に身体検査と口頭試問があった。受験者は、創立者伊賀駒吉郎の名声に惹かれてきたものが多かった。数年のうちに志願者は1000人を超え、倍率は5倍ほどとなった。
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