現存する伽藍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:56 UTC 版)
本堂(根本中堂) - 東京芸術大学音楽学部の裏手にある。上野公園内の清水堂、弁天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(堂内は非公開)。 書院 - 本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前に、2か月ほど蟄居していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている(非公開)。 旧本坊表門(北緯35度43分00秒 東経139度46分39.9秒 / 北緯35.71667度 東経139.777750度 / 35.71667; 139.777750 (寛永寺旧本坊表門)) - 重要文化財。通称黒門。東京国立博物館東側の輪王寺にある。寛永年間の建造物で、もとは博物館正門の位置にあった。 清水観音堂(北緯35度42分45.4秒 東経139度46分24.8秒 / 北緯35.712611度 東経139.773556度 / 35.712611; 139.773556 (清水観音堂)) - 重要文化財。上野公園内、西郷隆盛銅像の近くにあり、千手観音を祀る。寛永8年(1631年)の建築。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺本堂と同様の懸造建築である。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。 弁天堂(北緯35度42分43.6秒 東経139度46分16秒 / 北緯35.712111度 東経139.77111度 / 35.712111; 139.77111 (不忍池辯天堂)) - 上野公園南側にある不忍池の弁天島(中之島)に、天海が竹生島の宝厳寺の弁才天を勧請して建立。島は常陸下館藩主水谷勝隆が築いたもので、当初は橋がなく、舟で参詣していた。当初の建物は入母屋造であったが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建された。 旧寛永寺五重塔(北緯35度42分56.2秒 東経139度46分18.4秒 / 北緯35.715611度 東経139.771778度 / 35.715611; 139.771778 (旧寛永寺五重塔)) - 重要文化財。寛永8年(1631年)建立の初代の塔が寛永16年(1639年)に焼失した後、同年ただちに下総古河城主土井利勝によって再建された。塔は旧境内地を使って作られた恩賜上野動物園の園内に位置しており、1958年に寺が寄付したため、現在の所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。塔の初重に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。 東照宮(北緯35度42分55.3秒 東経139度46分14.1秒 / 北緯35.715361度 東経139.770583度 / 35.715361; 139.770583 (上野東照宮)) - 別項「上野東照宮」を参照。 時の鐘(北緯35度42分51.2秒 東経139度46分21秒 / 北緯35.714222度 東経139.77250度 / 35.714222; 139.77250 (寛永寺時鐘堂)) - 上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。現在ある鐘は天明7年(1787年)の作。 大仏山パゴダ(北緯35度42分52秒 東経139度46分21.9秒 / 北緯35.71444度 東経139.772750度 / 35.71444; 139.772750 (上野大仏(大仏山パゴダ))) - 時の鐘の近くにあり、昭和42年(1967年)の建立。もと上野東照宮本地堂(神仏分離の際に破壊)の本尊であった薬師三尊像(江戸時代初期)を祀る。 上野大仏 - 寛永8年(1631年)、堀直寄の寄進で最初の大仏が造られた。以後、地震、火災等で消滅と再興を繰り返し、現在は顔の部分のみが大仏山パゴダ脇に保存されている。 「上野大仏」を参照
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