渡部昇一との論争
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南京虐殺4万人説を取る秦は、南京虐殺ゼロ説を主張する田中正明と座談会でやり合ったことがあり、雑誌『正論』の連載の中で、渡部昇一が田中正明の『”南京大虐殺”の虚構』に推薦文を寄せていることに触れた際に、渡部があまりに田中を誉めていることを不快に感じて「この人は出世作の『ドイツ参謀本部』で、写真ぐるみワルター・ゲルリッツのHistory of German General Staffを大幅借用したぐらいだから、盗用や改ざんには理解があるのかもしれない」と書いた。秦自身は、大幅借用とは書いたが、盗用や剽窃とは一線を画した表現に自制したという。渡部は、その8年後に秦の『昭和史の謎を追う』でこの件を知ったとして、反論の論文を書いた。これに対し、秦は、本が出た直後にゲルリッツが種本だと気づいていた、自分だけでなく、その頃に何人かのドイツ近現代史研究者の間で半ば公然とそう語られていたとした。 秦によれば、渡部の反論は、秦は歴史専門家としては失格という主張が内容の半分を占め、肝腎のゲルリッツ利用の実情は全体の一割だったとする。秦は、渡辺の著述について借用したと思われる箇所をあげて、「大幅無断借用」と断じ、渡辺自身はこの著書を素人のダンナ芸としているのでアラ探しするのもバカバカしいとしながら、素人だからといってマナーが悪くなりがちだが、著作権をまもる責任はプロもアマも区別はない、写真の制約はさらに厳しく、出所の明示だけでなく著作権者の許諾が必要と主張した。 (実際には写真の場合は、1956年までに発行または制作のものは日本では全て著作権が切れている。) 田中正明との論争と松井大将陣中日記改ざん問題 なお、秦によれば、田中正明が犯した松井大将陣中日記改ざん問題について、渡部は1989年に刊行した『日本史から見た日本人・昭和編』で田中正明を弁護し、さらに「田中氏のもののほかでは、阿羅健一氏や板倉由明氏らの調査活動に共感を持つ」(p.389)と渡部が誉めていたので、秦は、田中の改竄を調べ上げて最初に雑誌に発表したのは板倉であり、渡部は田中対板倉の叩き合いを知らないのかと失笑したとしたとする。実際には、この改竄発見自体は、他ならぬ秦郁彦本人が、南京虐殺の有無をめぐって田中正明と対立していたために、中央公論社の『歴史と人物』編集部に田中正明の出した松井大将陣中日記を調べてみないかと話を持ち込み、横山編集長が話に乗って編集部関係者で調べたところ、松井石根大将(南京攻略戦総司令官)の陣中日誌等の改竄を発見、発覚したものである。この事件はしばしば板倉が改竄を発見したかのように語られることがあるが、旧陸軍士官らの親交団体である偕行社での南京事件に関する証言収集に板倉が携わっていたことを理由に、中央公論社からその鑑定(確認というべきか)を板倉に依頼したもので、板倉が改竄を発見したわけではない。内容を見た結果、板倉は改竄があることを認めざるをえず、本件を特集する雑誌『歴史と人物』に論考を寄せることを(歴史家洞富雄の表現によれば)敢えて買って出たものである。(なお、この論考文上で、板倉はかつての仲間であった田中正明を校訂ミス等では言い訳のきかない書換え・書加えを犯したと厳しく批判していた。ところが、田中があらたに本を刊行し、その推薦文を東大教授小堀桂一郎が寄せたときには、小堀自身は田中の改竄を単に校訂ミスとしているからという論法で、板倉はこれを擁護しており、洞富雄はこのことで板倉と田中を結局は同穴の士と批判した。) 中村粲との論争 また、秦郁彦は、日清戦争時の旅順虐殺事件も乃木旅団長の関与を巡って、対談で中村粲と論争になり、秦によれば、1990年雑誌『自由』の6月号で中村は秦が京大全共闘出身の左翼論客やアメリカ人学者を誘って自分を叩く陰謀を企てたが実現しなかったと書き、対して秦は10月号で両人について心当たりがないから名前を出せ、白昼夢をみたのではないかと反論、12月号で中村は、第三者を巻き込みたくないので名前を出すのは遠慮する、こんな具体的で複雑な白昼夢を見ることなどあるかと躱して、この件は終わったという。
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