江藤新平制度局時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1869年(明治2年)、副島種臣(法典論争延期派寄り中立派?)が『新律綱領』(刑法)の編纂開始。同時期に、箕作に仏刑法典の翻訳を命じている。 9月、明治政府の脆弱を背景に、オーストリア=ハンガリー帝国との間で安政の不平等条約よりさらに劣悪な通商条約締結、治外法権が確立。列強も最恵国待遇を受け、日本の法律は外国人は守る義務が無いとの見解さえ採られ、麻薬の密輸や、密猟に伴う殺人すら処罰できない有様であった。 1870年(明治3年)、太政官の制度取調局で民法編纂会議が開催された。会長は江藤。局員の津田真道、加藤弘之(独法派・延期派)、田中不二麿(断行派)、副島種臣、森有礼、福羽美静らがそのまま参画したのではなく、津田・田中・副島・森は不参加で、渋沢栄一や水本成美などが参加していたことが資料から明らかにされている(小早川欣吾)。 その方針は、「我国に行ひ難き条項を除き」箕作に翻訳させた仏民法典をそのまま日本民法にしようというものであった。 実に五里霧中で、翻訳をして居る中に、明治新政府は、頻に開明に進み、其翌年、明治3年には、太政官の制度局と云ふ所に其時、江藤新平…が中弁をやって居りましたが、民法を、2枚か3枚訳すと、すぐ、それを会議にかけると云ふありさまでありました。これは変は変だが、先づ、日本で、民法編纂会の始まりました元祖でございます、(喝采)其時分「ドロワ、シビル」と云ふ字を、私が民権と訳しました所が、民に権があると云ふのは、何の事だ、と云ふやうな議論がありまして…幸に、会長江藤氏が弁明してくれて、やっと済んだ位でありました。 — 箕作麟祥、明治法律学校始業式演説、1887年(明治20年)9月15日 南白乃ち之を弁明して曰く「活さず殺さず、姑く之を置け、他日必ず之を活用するの時あらん」と。此一言に由り、辛うじて会議を通過することを得たりと云ふ。 — 的野半介『江藤南白 下』1914年(大正3年)106頁 「民権」に反発したのは国学者の福羽と推測され(星野)、民に権利があるとは思いもしなかった日本の後進性を表すエピソードだとの見解(平野)と、仏語のdroits civilの訳語は自由民権運動にいうような「民権」ではなく「私権」(旧民法人事編1条、明治民法1条)が適当であり、実際誤訳だったとの見解(石井)がある。 民法決議8条 国人戸籍に連なりたる者たる者は悉く民権を有すことを得べし17条を参考すべし 仏民法7条(谷口知平訳) 私権の行使は、憲法及選挙法に従ひ取得せられ保持せらるる政治上の権利の行使とは独立するものとす 西洋法律用語の訳語の無い時代であり、難儀した箕作は留学を願い出たが政府は許可せず、仏人法学者ジョルジュ・ブスケを招聘して援助させた(ボアソナードと混同する文献があるが誤り)。 9月、普仏戦争に敗れたナポレオン3世が退位し、フランス第三共和政開始。 12月、中国法系の刑法典、新律綱領公布。
※この「江藤新平制度局時代」の解説は、「民法典論争」の解説の一部です。
「江藤新平制度局時代」を含む「民法典論争」の記事については、「民法典論争」の概要を参照ください。
- 江藤新平制度局時代のページへのリンク