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江藤智

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/25 06:36 UTC 版)

江藤 智
読売ジャイアンツ コーチ #80
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都東大和市
生年月日 1970年4月15日(41歳)
身長
体重
182cm
95kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手捕手
プロ入り 1988年 ドラフト5位
初出場 1990年4月7日
最終出場 2009年8月4日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2010 - )

江藤 智(えとう あきら、1970年4月15日 - )は、東京都東大和市出身の元プロ野球選手内野手)。

目次

来歴

プロ入り前

関東高等学校(東京)では通算61本塁打を記録。「東の江藤、西の谷繁」と言われるほどの強打の捕手として名を馳せた。その長打力を買われて1988年ドラフト5位で広島東洋カープに捕手として入団した。

広島時代

1990年4月に一軍初出場。6月に初めてのスタメン出場を経験したが、このときの守備位置は右翼手だった。その後も右翼手・一塁手として38試合に出場し、5本塁打を打ってアピールした。

1991年に7番三塁手で初の開幕スタメン出場。肩を故障したのと打撃を生かすためにこの年から捕手から内野手(主に三塁手)に転向。正捕手に達川光男がいたなどの理由もあった。初の2桁本塁打(このシーズンチーム最多の11本)を記録した(2003年まで13年連続)が、打率は2割前半と振るわず、レギュラー定着はならなかった。

1992年山崎隆造山田和利らと三塁手のレギュラーを争った。5・6月は不調で一歩後退したが、後半になるにつれ打率を急上昇させ、9月はほとんどの試合で4番に抜擢され翌年への期待を抱かせた。

1993年からレギュラーに定着する。開幕の3試合を除いてすべての試合で4番の座を守り抜き、初めて全試合に出場した。この年初めて規定打席に到達すると、前年の倍以上の34本塁打を打って本塁打王のタイトルを獲得、さらに初のベストナインに選ばれた。

1994年は前半故障で出遅れ5月18日福岡ドームでの巨人戦で槙原寛己完全試合喫した際は前田智徳共々欠場したが、6月に復帰して以降不動の4番に定着。8月には月間16本塁打の日本タイ記録。打率が初めて3割を超え、首位打者アロンゾ・パウエル中日ドラゴンズ)に迫り、前田智と同率で、打率.321を記録した。

1995年は本塁打王と打点王の二冠を獲得。シーズン終盤に急性虫垂炎で離脱したため、惜しくも40本塁打には届かなかった。また、自己最多の14盗塁も記録した。

1996年はシーズン前半から打撃好調で3割をキープ。本塁打も32本に達した。しかし8月の読売ジャイアンツ戦で仁志敏久の打球を左目に当てて眼窩底を骨折し離脱。強肩の三塁手として鳴らしていたが、これ以降打球への反応が鈍くなってしまった。この年初めて最高出塁率ゴールデングラブ賞を獲得。

1997年は出塁率は3割8分と高かったものの、打率は.252と平凡な数字に終わり、前年まで4年連続で受賞していたベストナインを逃した。

1998年は自己最多の100四死球を記録し、出塁率はこの年も3割8分を超えたものの、やはり自己最多となる103三振も記録し、打率は.253となかなか復調せず、終盤は金本知憲に4番を譲る試合もあった。

1999年8月12日の対横浜ベイスターズ戦で1試合10打点のセ・リーグタイ記録をマーク。3割に迫る打率を残した。オフにFA権を行使し、巨人に入団。広島で着けていた背番号33を当時監督だった長嶋茂雄から譲り受けた(これ以降長嶋は現役時代の背番号である3をつけた)。

巨人時代

2000年前半戦は不振に悩む高橋由伸に代わり3番打者として活躍、リーグ最多の勝利打点を挙げ(最多勝利打点のタイトル表彰はこの年限りであったため、江藤が最後の受賞者となった)、セ・リーグ優勝と日本一に貢献。特にリーグ優勝を決めた9月24日の中日戦(東京ドーム)では、4点ビハインドで迎えた9回裏に当時の守護神エディ・ギャラードから同点満塁ホームランを放つなど、勝負強さを発揮した。これは2000年巨人の通算200本塁打であった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでもホームランを放っている。

2001年は移籍後2年連続のベストナイン・30本塁打を記録。スラッガーとして結果を残した。

2002年は2割台前半・本塁打18本とレギュラー定着以降最低の成績に終わり、この年から徐々に成績が低迷。

2003年も前年からの不振が続き、11年ぶりに規定打席に到達しなかった。打順は主に7番で、代打での起用も多くなった。

2004年は三塁手である小久保裕紀がダイエーから移籍してきたこともあり、スタメン出場は15試合にとどまった。

2005年は通算350本塁打にあと1本に迫っていたが、7月30日の対中日12回戦で本塁打性の当たりを放ったものの、天井に当たりレフトフライとなってしまい、通算350号ホームランは幻となってしまった。結局、遂に本塁打を1本も打てず、打率も2割を切り、スタメン出場は8試合で完全に代打要員となってしまった。同年オフの契約更改では野球協約の限度である40%を超える減俸となった。その直後、FAで巨人入りした豊田清の人的補償として西武ライオンズへの移籍が決定。「FA移籍」と「別の選手のFA移籍に伴う人的補償選手として移籍」の両方を経験した、プロ野球史上初の選手となった。

西武時代

2006年、西武では年齢、キャリア年数ともチーム最高となり、豊富な経験に人柄も手伝って若い選手の多いチームにあって貴重な存在感を示した。36歳の誕生日となる4月15日千葉ロッテマリーンズ戦では内竜也から2年越しとなる通算350号本塁打も放った。また7月19日の福岡ソフトバンク戦では、主力であるアレックス・カブレラ和田一浩といった主力打者が抜けたため4番に座り(巨人時代は一度も4番を打たなかった)、6回表に佐藤誠からレフトへの二塁打を放ち、通算1500本安打を達成した。移籍後は主に代打(対左投手)としての起用が多く、時には指名打者や一塁手、三塁手として先発出場している。

2007年も代打や指名打者として活躍。西武移籍後初めて三塁の守備につき三塁手として9試合にスタメン起用され、カブレラがエラーを繰り返した際はカブレラが指名打者に回って江藤が一塁を守るなど、守備でも健在ぶりを示した。9月29日の対オリックス・バファローズ22回戦で、プロ野球史上33人目の通算1000打点を達成。「一生懸命振った。迷惑をかけたけど伊東監督、みんなに感謝です」とコメントした。

2008年も前年までと同じく代打の切り札として、また、クレイグ・ブラゼルが故障したときなどは4番一塁手でスタメン起用された。打率は.206と低かったが、20本の安打のうち本塁打が7本と、長打力は発揮した。この年に再度FA権を取得したが、行使せず残留することで合意。日本シリーズ制覇や球団史上初のアジアチャンピオンに貢献。

2009年は代打での出場が多かったものの、打率1割台と不振で8月6日に2軍に降格。その後は再度1軍に昇格することなく10月2日に現役引退を発表、11月4日に任意引退選手として公示された。

現役引退後

2009年11月10日に古巣巨人の育成担当コーチに就任。

2010年は二軍育成コーチを担当。2011年は一軍打撃コーチに就任した。

人物・プレースタイル

プロ入り以来サヨナラヒットに縁がなく、初めてのサヨナラは巨人時代の2001年8月7日阪神20回戦で、サヨナラ本塁打に関しては引退まで1本も打てなかった。なお、サヨナラ本塁打「ゼロ」の選手では、通算で最多の本塁打を打っている。

広島時代に対戦した巨人の斎藤雅樹に極端に弱く、本塁打はおろか、対斎藤の初安打は1999年4月15日の巨人3回戦に第3打席にレフト前にヒットを打つまで45打席かかった。7月10日の巨人14回戦も斎藤に3打数0安打と抑えられ、江藤が翌年巨人に移籍しチームメイトとなり、斎藤は2001年に引退したため、ヒットはこの1本だけだった。

新人時代、キャッチャーボックスから二塁までノーバウンドで送球が出来なかった。

1992年から2004年にかけて、毎シーズン盗塁を1回以上(最多は1995年の14個)は決めていた。

ポップコーン正一に似ているといわれていたことがあった。

高校の同級生に漫画家安野モヨコと元バレーボール日本代表の泉川正幸、また1年先輩にMr.Children桜井和寿がいる。

巨人時代は一度も四番スタメンはなかった。自身が巨人に在籍していた時期には、清原和博松井秀喜、高橋由伸、ペタジーニ、小久保裕紀が四番を打った。

西武入団会見で少年時代にライオンズ友の会(ファンクラブ)に加入していたことを明らかにした。

西武での登場テーマ曲はジョン・レノンの「Power to the people」で、間に「江藤!」という合いの手が入る。

文化放送文化放送ライオンズナイター』では江藤を「微笑みのバズーカ」と称している。

元チームメイトの西山秀二には「練習熱心で、後輩の面倒も良くみて、文句を言っている所を聞いたことが無い。あんなプロ野球選手、他にはいない」と言わしめる程である。巨人から西武への移籍に当たっても、「(巨人時代の)6年間はいい思い出だけ。西武に行って少しでも長く野球をやりたいので頑張ります」とコメントを残している。

西武時代は精神的支柱として若手選手から慕われ、なぜか渡辺久信監督からも「江藤さん」とさん付けで呼ばれていたという[1]






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