民衆交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 12:33 UTC 版)
律令国家の支配下に置かれた民衆は戸籍・計帳・五保・関などのシステムによって本貫地に縛り付けられる一方、庸調の運脚、官物の京進、防人・衛士・仕丁などとしての徴用などによって強制的に都鄙間の往来を命じられるなど、国家に移動を統制されていた(生業や宗教活動など私的な交通が完全に否定されていた訳ではなかったが)。特に庸調は陸路かつ人力での中央への輸送が強制されていた。これは、車・舟などを持てるのは有力な地方豪族に限定されるために車舟による輸送を認めると納税に豪族の介入の余地を生むこと、更に民衆に都を一種の舞台装置として見せることで民衆に国家的な共同幻想を抱かせる演出を図ったとする見方がある。その一方で、官人は郡家や駅家での宿泊は認められていたものの、民衆は沿道の民家や小規模な寺院・道場を借りて宿泊したり、野宿をしたりしていたと考えられている。国家にとって庸調が無事に都に届くか否かは重要な問題であったと考えられているが、具体的な政策については不明なことが多い。大化の改新直後に、旅人など外部の人々を穢れであるとして祓除を強要する行為を禁じる命令が出されたり(『日本書紀』大化2年3月甲申条)、平安時代前期に国家が布施屋を建設したり(『類聚三代格』所収:承和2年6月29日付太政官符「応造浮橋布施屋并置中渡船事」)などの措置が知られているが、多くは沿線の豪族や寺院、地元住民の力によるところが大きかった。また、都鄙間の強制的な往来やそれに伴う都への人口の密集は、人々が都において病原体に接触する危険性を高め、更にそれを故郷に持ち帰ってしまう可能性を生み出し、それが律令国家の下でたびたび発生した疫病の流行拡大につながったとする見方もある。 もっとも、陸路かつ人力での中央への輸送の強制は、本州以外の地域(西海道・南海道)では実施が困難であり、8世紀後半から海上輸送が本格的に導入されるようになると、他の地域でもこの原則が崩れ始めた。やがて、租庸調制度そのものの衰退もあり、租税や官物は地方官が責任を負って都に運ぶようになる。このため、民衆が強制的に都鄙間の交通を強制させられることはなくなり、また戸籍制度の衰退で本貫地に縛りつけられることもなくなったものの、民衆の都鄙間交通は大幅に減少したために、布施屋や小規模寺院・道場なども荒廃し、律令国家期とは別の意味で民衆の移動は困難になっていった。
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