歴史叙述の六家
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まず劉知幾は、冒頭の「六家」篇や「古今正史」篇で、過去の歴史書を以下の六家に分類し、それぞれの特徴とその源流を論じている。 尚書家 『尚書』に始まる歴史書の体裁。記言の書(発言を記した書)であり、上古の王者の言葉を史官が記録したもの。王道の正義を号令としての語言に託し、これを臣下に布告した。孔子の編纂にかかる歴史叙述の始祖で、疎通知道を旨とする。書物の少ない過去においては価値があるが、現代の史書としては不完全である。この類の書に『逸周書』や孔衍(中国語版)『漢尚書』、王劭『隋書』などがある。 春秋家 『春秋』に始まる歴史書の体裁。記事の書(出来事を記した書)で、実際の行事によって実証的に規範を説く。元来は魯国という一国の歴史書に過ぎなかったが、孔子の編纂を経たことで規範的な歴史記述となったとする。『尚書』が一般法則を説くのに対して、『春秋』は個別の判例を提示し、孔子の編纂にかかる属辞比事を旨とする。これにより時間系列による叙事形式(編年体)が提供された。 左伝家 『春秋左氏伝』に始まる歴史書の体裁。記言の書である『尚書』と記事の書である『春秋』の体裁を組み合わせ、より充実した史体に改良した。編年体の形式を基本としながら、一貫した体例と個別の事象に対する評論を備える。劉知幾はこれをもって「史道」が成立したとする。この類の書に荀悦『漢紀』、孫盛『魏氏春秋』、干宝『晋紀』、王劭『北斉志』などがある。 国語家 『国語』に始まる歴史書の体裁。左伝家によって記事・記言を合わせた形式が成立したが、編年体の叙述には記述しきれない歴史事象はあまりにも多く、その欠点を補うために現れた形。劉知幾は、左丘明が『左伝』を編纂した際に収録しきれなかった情報が『国語』に記されているとし、各国の史書の記載を網羅し選別したものが『国語』であると位置づけた。同時に、『国語』はのちの「世家」の起源であるともされた。この類の書に『戦国策』、孔衍『春秋時国語』、司馬彪『九州春秋』などがあり、劉知幾は五胡十六国の歴史の記述にはこの体裁を多く用いるべきだったとしている。 史記家 『史記』に始まる歴史書の体裁。『史記』は黄帝から漢の武帝までの事跡を記載し、紀伝体を取り、本紀・表・書・世家・列伝から成る。『史記』の成立によってあらゆる歴史叙述の形式が組み込まれ、歴史事象も幅広く体系的に記述された。一方、同じ事象の記述があちこちに分かれて書かれている点、同じ事件が重複して記述されている点などに欠点がある。この類の書に梁武帝勅撰の『通史』、李延寿『南史』『北史』などがある。 漢書家 『漢書』に始まる歴史書の体裁。『史記』は紀伝体として最初の試みであり、不備な点も多かった。その一つが紀伝体という性質上、長期間の叙述が難しいということであり、この点を改善し一王朝の断代史として作られたのが『漢書』であるとする。劉知幾は、『漢書』は一王朝の興亡を明らかにし、内容は精密で、倫理の大筋を備えていると最も高く評価している。この類の書に『東観漢記』『三国志』などがある。 以上の分類は、劉知幾の「史書の体例や文章は時代によって変化せねばならない」とする考え方から、過去の歴史書を歴史的に位置づけ、その変遷を考察しようとしたものである。劉知幾は、経書である『尚書』『春秋』の精神は、史書に分類される『史記』『漢書』にも継承されているとし、こうした歴史叙述の精神は聖人から引き継がれたものであると考えていた。 劉知幾は、以上の歴史叙述の六家のうち、現在手本とすべきなのは「左伝家」と「漢書家」であるとする。「左伝家」について劉知幾は、「春秋三伝」の中で『左伝』が最も優れていることを「申左」篇で強調し、その理由として著者の左丘明が幅広い資料を見ていることと、『左伝』が左丘明の直接の見聞に基づくことを挙げる。劉知幾にとって、『左伝』は歴史事実に忠実である上に、高い倫理性・道徳性を備えた歴史書であった。 そしてもう一つの「漢書家」が、劉知幾が最も重視した史体である。古来、史官は王朝に仕えて事実を記録していく人々であり、乱世でなければ、歴史を書くという行為は王朝秩序を支えるためという意識のもとにあった。劉知幾の仕えた唐王朝は、漢を理想とし、漢に並び立とうという意識を持った王朝であって、その史官の課題は「唐の歴史をいかに正確に記述するか」ということにある。劉知幾にとって、歴史記述の範囲はあくまで一つの王朝であり、そこで断代史である『漢書』を高く評価した。 これに関連して、内藤 (1937, p. 613)は、この六家の分類は、劉知幾が理想とする「漢書家」の体裁が正統な歴史的由来を持ち、過去の各種の歴史書の体裁を根拠に持つことを強調するために設けた区分であるとする。そして、劉知幾が「漢書家」を最上とみなした理由は、劉知幾自身が史官として史書編纂に従事する立場にあったことと関連するとする。つまり、もともと個人著作として書かれていた歴史書も、唐代には皇帝の命令の下で多数の史官によって編纂されるものに変わっており、劉知幾もそうした史官の一人であった以上、当時彼が編纂に従事していた断代の紀伝体史が最上位に置かれるのは止むを得ないことでもあった。
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