東晋・南朝宋・斉(316-502)
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「貴族 (中国)」の記事における「東晋・南朝宋・斉(316-502)」の解説
魏はその後、西晋に禅譲を行い、さらに西晋もまた36年という短い統一期間の後に匈奴の漢(前趙)により一旦滅亡し、皇族の司馬睿が江南に逃れて東晋を立てた。この時、貴族たちは司馬睿と共に南遷する者とそのまま華北に残った者に分かれた。 司馬睿を迎え入れ東晋政権を安定させるのに尽力したのは主に現地の土着豪族である。しかし東晋が安定すると政権の枢要な地位に就いたのは彼ら現地の豪族ではなく、司馬睿と共に南渡した華北の貴族たちであった。その代表は、王導・王羲之ら琅邪王氏、謝安・謝霊運らの陳郡謝氏である。現地の豪族たちは二流貴族として差別を受け、この不満から一部の者が反乱を起こすこともあったが、大勢としては東晋政権に従うことで地位を保つ道を選んだ。北来貴族・南人貴族ともに華北の混乱が江南にまで及び、貴族としての地位が完膚なきまでに破壊されることを最も恐れていたので、東晋政権が崩れることを望まなかったのである。 その後、曲がりなりにも安定政権を築いた東晋であったが、その権力基盤は脆弱であり、貴族たちの歓心を買い、離反を防ぐために官職をばら撒くことを行った。郷品のうち、一品は皇族や大官の子などだけが得られる特別のものであってまず与えられることはない。そして西晋代には郷品二品もまた貴重であり、大抵は郷品三品から始まっていた。しかしばら撒きにより名門であれば郷品二品が珍しくなくなり、次第に郷品二品と三品以下との間にはっきりとした線が引かれるようになる。郷品二品の家は門地二品と呼ばれ、三品以下の家は寒門・寒士と呼ばれる。また庶民が任官して昇進しても寒士より更に低い所で壁に当たることになる。これら庶民出身の官吏は寒人と呼ぶ。 東晋の初めごろはこれら北からの亡命者が増えることはそれだけ労働力を増やすことになり、大いに歓迎された。これら亡命者たちは元の本籍地で戸籍に登録され、亡命後の定着地の戸籍には登録されなかった。これを白籍という(反対に現地で登録される戸籍を黄籍という)。そのためこれら亡命者たちは亡命後の定着地に対しては何ら義務を負わず、単に権利のみを有していた。しかし東晋がある程度安定すると亡命者たちも持てはやされることもなくなり、現地の戸籍に登録して税を徴収するべきであるとの意見が強くなった。これが桓温などの実力者の元で実行された土断である。 東晋において政権を握ったのは王導・謝安などの甲族(門地二品)であったが、それに対して東晋の守りの要である北府・西府両軍の武力を背景として桓温・桓玄が台頭し、桓氏の簒奪失敗の後に劉裕(武帝)が新たに南朝宋を建てた。 劉裕の後を継いだ文帝の時期は、華北が北魏の統一戦の時代でその干渉を免れたこともあり、長い平和が続いた。これを当時の元号元嘉を取って元嘉の治と呼ばれ、この時代が貴族制の全盛時代とされる。 一方で劉裕は生まれた時に危うく間引きされそうになったというエピソードが示すように、一応貴族に分類されるもののかなりの末流であり、軍功によりのし上がり皇帝にまで上り詰めたものである。以後の南朝斉・陳の始祖(南朝梁は南朝斉の宗族)もまた劉裕と同じく軍功により上り詰めた軍人である。 これら軍人皇帝は自らの手足として寒門・寒士層を重用するようになる。門地二品層は皇帝の意向を無視することが多く、また意欲にも能力にも乏しい者が多かったためである。これにより寒門・寒人層の台頭が目立つようになるが、実際の権力を握っても寒門・寒士たちに対する門地二品層の身分的差別は厳しいものがあった。例えば蕭道成(南朝斉の高帝)の寵愛を受けた紀僧真は貴族との交流を求めたが、貴族から拒否されている。 南朝宋から禅譲を受けた南朝斉では高帝・武帝の一時的な安定の後は皇族が地位を巡って殺しあう暗黒時代となった。そのため23年という短い期間で斉は滅亡し、蕭衍(武帝)により南朝梁が建てられた。
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