東晋官軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 17:07 UTC 版)
328年5月、陶侃の本隊が温嶠の寄る尋陽入りし、ここで庾亮が陶侃と会談して非礼を詫たことで正式に和解。陶侃を大将とした総勢4万の兵が建康奪還に南に向かうと、これに呼応して王舒、庾冰、虞潭、蔡謨、顧従らが各地で義兵を率いて立ち上がる。これに対する蘇峻は成帝の身柄を強引に石頭城に移して周辺の防備を固め、また北で苦戦する祖約に援軍を送って苑を奪い返し、匡術に守らせた。 陶侃・温嶠らは水軍を要として徐々に南下して蘇峻軍と戦い、茄子浦では温嶠配下の毛宝が蘇峻軍の桓撫の輜重部隊を襲い、兵糧を奪い取って大いに破り、また郗鑒もようやく兵を率いて茄子浦に駆けつけた。しかし、蘇峻軍の韓晃に囲まれた宣城を守備していた桓彝を救援できず桓彝は敗死し、庾亮の派兵した王彰も蘇峻軍の張曜に敗れるなど蘇峻軍の勢いも依然衰えてはいなかった。
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