東晋軍の相次ぐ敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
その後、彭超らは南へ進んで盱眙へ侵攻すると、淮陰を攻略した倶難らと合流した。さらに右将軍毛当・強弩将軍王顕もまた2万を率いて襄陽から出撃し、倶難・彭超と合流した。 5月、倶難・彭超は盱眙を攻略し、守将である建威将軍毛璪之を捕らえると、さらに侵攻を続けて6万の兵で幽州刺史田洛の守る三阿を包囲した。 これは広陵からわずか百里の地であったので、東晋朝廷は大いに震え上がり、長江に臨んで兵を陳列して守備を固めると共に、征虜将軍謝石に水軍を与えて涂中に駐屯させた。また、右衛将軍毛安之・游撃将軍司馬曇・淮南郡太守楊広(楊佺期の兄)・宣城内史丘準には4万の兵を与えて堂邑を守らせたが、前秦の右将軍毛当・右禁将軍毛盛は騎兵2万を率いて堂邑を急襲し、毛安之軍を破ってその軍を潰走させた。
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