時代劇の名監督へとは? わかりやすく解説

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時代劇の名監督へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:08 UTC 版)

伊藤大輔 (映画監督)」の記事における「時代劇の名監督へ」の解説

1926年昭和元年)、日活太秦撮影所移り、まだ新人だった大河内傳次郎コンビ組み、『長恨』、『流転』などの時代劇作品監督激し乱闘シーンやアメリカ・ドイツ・ソ連など外国映画の影響受けた大胆なカメラワーク注目を浴びる。さらに1927年昭和2年)、映画史上に残る「金字塔」と称される傑作忠次旅日記三部作発表一躍映画界代表する存在になり、後世大きな影響与えたこの年監督した河部五郎主演の『下郎』も名作数えられ撮影唐沢弘光初めコンビ組んだ。 『忠次旅日記』で伊藤大輔大河内伝次郎唐沢弘光の3人が初め顔を合わせ、ここに「ゴールデントリオ」が生まれた以降サイレント末期日本映画界をリードする旗手となり、この3人のコンビによって『素浪人忠弥』『興亡新撰組』(以上1930年公開)、『侍ニッポン』『御誂次郎吉格子』(以上1931年公開)など多く時代劇傑作誕生させた。 1928年昭和3年)、『新版大岡政談』で、大河内隻腕隻眼の怪剣士丹下左膳」を演じさせ、スピード溢れる展開が大人気となり「大河内傳次郎丹下左膳」の人気不動のものとした。以来、『続大岡政談 魔像篇第一』(1930年)や『丹下左膳 第一篇』など大河内主演一連の丹下左膳シリーズ連発した。 1929年昭和4年)、市川右太衛門プロダクションで『一殺多生剣』を、松竹京都撮影所月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を監督。両作とも当時の社会主義思想影響受けた傾向映画」の代表作として知られ前者内務省検閲によって、完成フィルムから300フィート余り削除されている。しかしカット・バック移動撮影斬新さで世を驚かし芸術的に高い評価受けた映画トーキー時代迎えた頃、元々極めて奔放な性格映画会社トラブル多かったことに重ねて伊藤社会的思想当局によって弾圧対象となり、検閲言論統制強まっていく時代流れのなか、映画作り意欲衰えて不振極め小津安二郎溝口健二山中貞雄らに押されて、目立つ作品残していない。 1932年昭和7年)、村田実田坂具隆内田吐夢とともに日活から独立して新映画社設立するが、翌1933年昭和8年)に解散。再び日活戻った同年アメリカウエスタントーキー初め使った丹下左膳 第一篇』を発表また、片岡千恵蔵プロダクションで『堀田隼人』を監督・脚本する。以降監督作不振状態に遭い衣笠貞之助監督の『雪之丞変化』を始めシナリオ作家として数々名作残していった。 1934年昭和9年9月永田雅一溝口健二山田五十鈴らと第一映画社設立する1936年昭和11年)、日本映画監督協会設立参加1942年昭和16年)、大映京都嵐寛寿郎迎えて製作した鞍馬天狗横浜に現る』を監督。「鞍馬天狗」はアラカン代表作であるが、大映京都ではこの一本終わっている。1943年昭和18年)には片岡千恵蔵主演で『宮本武蔵・二刀流開眼』を監督こうした作品時代劇スタア育て上げる同時に時代劇人気支え以後年に一本ペース新作撮り続ける。

※この「時代劇の名監督へ」の解説は、「伊藤大輔 (映画監督)」の解説の一部です。
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