時代劇の名監督へ
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「伊藤大輔 (映画監督)」の記事における「時代劇の名監督へ」の解説
1926年(昭和元年)、日活太秦撮影所に移り、まだ新人だった大河内傳次郎とコンビを組み、『長恨』、『流転』などの時代劇作品を監督、激しい乱闘シーンやアメリカ・ドイツ・ソ連など外国映画の影響を受けた大胆なカメラワークで注目を浴びる。さらに1927年(昭和2年)、映画史上に残る「金字塔」と称される傑作『忠次旅日記』三部作を発表。一躍映画界を代表する存在になり、後世に大きな影響を与えた。この年監督した河部五郎主演の『下郎』も名作に数えられ、撮影の唐沢弘光と初めてコンビを組んだ。 『忠次旅日記』で伊藤大輔、大河内伝次郎、唐沢弘光の3人が初めて顔を合わせ、ここに「ゴールデントリオ」が生まれた。以降サイレント末期の日本映画界をリードする旗手となり、この3人のコンビによって『素浪人忠弥』『興亡新撰組』(以上1930年公開)、『侍ニッポン』『御誂次郎吉格子』(以上1931年公開)など多くの時代劇の傑作を誕生させた。 1928年(昭和3年)、『新版大岡政談』で、大河内に隻腕隻眼の怪剣士「丹下左膳」を演じさせ、スピード感溢れる展開が大人気となり「大河内傳次郎の丹下左膳」の人気を不動のものとした。以来、『続大岡政談 魔像篇第一』(1930年)や『丹下左膳 第一篇』など大河内主演で一連の丹下左膳シリーズを連発した。 1929年(昭和4年)、市川右太衛門プロダクションで『一殺多生剣』を、松竹京都撮影所で月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を監督。両作とも当時の社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作として知られ、前者は内務省の検閲によって、完成フィルムから300フィート余りが削除されている。しかしカット・バックや移動撮影の斬新さで世を驚かし、芸術的に高い評価を受けた。 映画がトーキー時代を迎えた頃、元々極めて奔放な性格で映画会社とトラブルが多かったことに重ねて、伊藤の社会的思想は当局によって弾圧の対象となり、検閲、言論統制が強まっていく時代の流れのなか、映画作りの意欲が衰えて不振を極め、小津安二郎、溝口健二、山中貞雄らに押されて、目立つ作品を残していない。 1932年(昭和7年)、村田実、田坂具隆、内田吐夢らとともに日活から独立して新映画社を設立するが、翌1933年(昭和8年)に解散。再び日活に戻った。同年、アメリカのウエスタン式トーキーを初めて使った『丹下左膳 第一篇』を発表。また、片岡千恵蔵プロダクションで『堀田隼人』を監督・脚本する。以降は監督作が不振状態に遭い、衣笠貞之助監督の『雪之丞変化』を始め、シナリオ作家として数々の名作を残していった。 1934年(昭和9年)9月、永田雅一、溝口健二、山田五十鈴らと第一映画社を設立する。 1936年(昭和11年)、日本映画監督協会の設立に参加。 1942年(昭和16年)、大映京都が嵐寛寿郎を迎えて製作した『鞍馬天狗横浜に現る』を監督。「鞍馬天狗」はアラカンの代表作であるが、大映京都ではこの一本に終わっている。1943年(昭和18年)には片岡千恵蔵主演で『宮本武蔵・二刀流開眼』を監督。こうした作品で時代劇スタアを育て上げると同時に、時代劇人気を支え、以後年に一本のペースで新作を撮り続ける。
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