村田実とは? わかりやすく解説

むらた‐みのる【村田実】

読み方:むらたみのる

[1894〜1937]映画監督俳優東京生まれ。はじめ新劇界で活躍小山内薫(おさないかおる)に師事帰山教正(かえりやまのりまさ)の映画出演したのち、小山内とともに松竹キネマ入社し路上の霊魂」などを監督。他に「清作の妻」「街の手品師」「灰燼(かいじん)」など。


村田実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/31 02:32 UTC 版)

村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月26日)は、大正昭和初期の日本映画監督脚本家俳優日本映画監督協会初代理事長。


  1. ^ 西洋模倣の行き過ぎにより翌年に公開が見送られた
  2. ^ 近藤伊与吉は映画雑誌に、昂ぶった口調で、「なお無自覚な新派風を破壊しつづけなければならないが、今や映画劇は建築時代にさしかかったとして、第二の時代に向った歴史的名誉を荷ったものは『路上の霊魂』である」と筆を走らせている[10]
  3. ^ また、1921年2月の『路上の霊魂』撮影期間中には小山内薫土方与志とともに、日本のプロレタリア演劇の祖平澤計七亀戸事件で刺殺)の労働劇団の創立公演を観に行っている[12]
  4. ^ 岡田は「村田氏は元来が俳優の意見に耳をかそうという人ではありません」、浦辺は「村田さんは『こんな事くらいできなくてどうする、それでも女優と言えるか。死んじまえっ!』と怒鳴るんです」とそれぞれ語っており、菅井一郎は「村田実さんの、人間味のある、そして包容力のある、なかなか喜怒哀楽を表に出さない沈着さ」と評価しつつ「何度やっても、村田さんは『駄目だね』の一点張り、私は、すっかり上がってしまって……(村田さんの)『よし行こう』がなければ、私は、その声がかかるまで、稽古をつづけていなければならないのだ。そのうち、村田さんのかすかな寝呼吸が聞こえてくる。『さあ、先生、参りましょう』と、声をかけると、姿勢は、居眠りのまま声鋭く『駄目だね』と、村田さんのハッキリした声が返ってきた」と語っている[14]
  5. ^ 『街の手品師』については「村田実――疾駆する点景 現代映画のパイオニア」 72-80頁に詳細
  6. ^ 1924年12月5日に築地小劇場で公演されたゲオルク・カイザー作・土方与志演出の『朝から夜中まで』で村山が手がけた舞台装置の写真を二階の書斎に飾っていたと木村荘十二が語っている[16]
  7. ^ 『灰燼』撮影中に、当時『キネマ旬報』に論文投稿を続けていた中川信夫が知人の紹介状をもって、助監督になりたいと大将軍撮影所で面会を求め、村田に「監督になるには、まず俳優をすることだ」と言われ驚いている[21]
  8. ^ 第3位は301票のマキノ正博[24]
  9. ^ 日活大争議、「脱退七人組」騒動については伊藤大輔著・加藤泰編 『時代劇映画の詩と真実』 キネマ旬報社 (1976)、佐伯知紀編 『[映畫読本] 伊藤大輔――反逆のパッション、時代劇のモダニズム!』 フィルムアート社 (1996)、山本嘉次郎 『カツドウヤ自他伝』 昭文社 (1972)などに詳細
  10. ^ この頃小杉勇たちと浅草で『仮名手本忠臣蔵』の演出を手掛け、「自分は後にも先にもチューシングラは五歳の時に一度見ただけだ」と話し、驚倒しそうになったと徳川夢声のエッセイ『夢声慢筆』(早川書房 (1947))にある[4]
  11. ^ 新藤兼人は「牧野省三が日本映画の父ならば村田実は兄」とまで評し[3]岩崎昶は「日本映画の成長期において、創造的な芸術家としてよりも組織者としてまた啓蒙家として大きな役割を果たした。もちろん、新劇の経験をもつ彼は演出家としてもとくに演技指導の点ではぬきんでた才能をあらわしたし、それまで大体において抒情的に流した傾向の映画が支配していたのにたいして、ガッチリと組み立てたドラマを日本映画にもちこもうとした努力も尊重されなければならない。」としている[31]
  1. ^ 茨城県知事公室広報広聴課『メルマガいばらき2002年9月15日号Vol.2』
  2. ^ a b c d 『監督 村田実』 215-217頁
  3. ^ a b 『一スジ二ヌケ三役者 [日本シナリオ史]』 176頁
  4. ^ a b 『聞書き キネマの青春』 243頁
  5. ^ 松本克平 『日本新劇史 新劇貧乏物語』 筑摩書房 (1975) (『日本映画とモダニズム 1920-1930』 72頁 所引)
  6. ^ 読売新聞』 1985年2月21日夕刊 (『89年版 ことばのくずかご』 192頁 所引)、木村修吉郎 「踏路社時代の関口存男君」 (『関口存男の生涯と業績』 所収)に詳細
  7. ^ 『映画時代』 一九二六年七月号、『日本映画史1』161-162頁
  8. ^ allcinema「森岩雄のプロフィール」
  9. ^ 『実録 日本映画の誕生』 26頁
  10. ^ a b 『監督 村田実』218-219頁
  11. ^ 徳永直『闘いのあと』(『日本映画とモダニズム 1920-1930』 84-85頁)
  12. ^ 『村田実――疾駆する点景 現代映画のパイオニア』85頁
  13. ^ 磯田啓二『熱眼熱手の人――私説 映画監督伊藤大輔の青春』88-89頁(日本図書刊行会)
  14. ^ 『聞書き キネマの青春』 152-153頁
  15. ^ 『聞書き キネマの青春』 146-149・267頁
  16. ^ 『聞書き キネマの青春』 267頁
  17. ^ 『機械時代の美学と映画』203頁
  18. ^ 撮影中途で行方くらます、日活が激怒『中外商業新報』昭和2年3月30日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p35 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  19. ^ 『監督 村田実』223頁
  20. ^ 『日本映画の青春時代』186頁
  21. ^ 中川信夫監督公式ホームページ 中川信夫を語り継ぐものたち
  22. ^ 『一スジ二ヌケ三役者 [日本シナリオ史2]』173頁
  23. ^ 内田岐三雄(『キネマ旬報』 一九二九年四月一日、三二六号)
  24. ^ 『映画往来』 一九三〇年八月号 86-87頁
  25. ^ a b 『監督 村田実』226頁
  26. ^ 牛原虚彦「再出發」(日本映画監督協会機関誌 『映画監督』 第一号 (1949) 所収)
  27. ^ 現代もの映画監督の先駆者、死去『中外商業新聞』1937年(昭和12年)6月27日夕刊.『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p718 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  28. ^ 『村田実――疾駆する点景 現代映画のパイオニア』 66頁
  29. ^ 『聞書き キネマの青春』 160頁
  30. ^ 『聞書き キネマの青春』 238-239頁
  31. ^ 『日本現代史大系 映画史』 71頁
  32. ^ 三上於菟吉原作。日活ホームページ 「日輪 前篇」映画


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