とりで社時代
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1912年(大正元年)9月、家の金を使い、ゴードン・クレイグやマックス・ラインハルト、メーテルリンクなどに大きく影響を受けた演劇美術雑誌『とりで』を発行。表紙を岸田劉生、安堵久左、清宮彬、岡本帰一らが手がけ、自身も毎号カット画を描いている。三号までの刊行が大方の同種の雑誌の中で、この『とりで』は翌年10月の八号まで続いたという。また同10月には新劇団・とりで社を結成。後に宝塚歌劇の演出家となる岸田辰弥、舞踊家として海外で活躍することになる伊藤道郎、画家の木村荘八らが参加。築地精養軒ホールや有楽座、福沢桃介邸の小劇場で公演を行い、この間に沢田正二郎、小山内薫らと知り合う。しかし家の経済に負担をかけ、1914年(大正3年)に解散。河合武雄、伊庭孝、喜多村緑郎門下などの新劇団を転々とし下積み生活を送る。また、この間に父の事業が失敗する。
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