松竹キネマ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:57 UTC 版)
1920年(大正9年)、松竹キネマ俳優学校校長の小山内薫の門下となり、蒲田撮影所で『奉仕の薔薇』『光に立つ女(女優伝)』の脚本・監督を務める。やがて社内の商業主義監督たちとの対立により、小山内が松竹キネマ研究所を設立すると行動をともにし、その最初の作品『路上の霊魂』の監督・出演をこなす。しかし完成直後に村田が大病に罹り、牛原虚彦(脚本・出演)の母、水谷文次郎(撮影)と島津保次郎(光線)の父が急逝する事態になったが、当時の反響は大きく、今日まで残る日本の芸術映画黎明期を伝える資料となっている。
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