明法道の確立と貴族社会
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神亀5年(728年)、大学寮に律令法の教授を目的とした律学博士が設置され、程なく明法博士と改称された。明法博士による法曹教育の仕組は後に「明法道」と称されるようになるが、その結果全ての貴族・官人が律令法の知識を有してその運用に携わっていく前提が崩壊し、明法道を学んで明法博士を務め、あるいは刑部省や検非違使に所属した「明法家」と呼ばれる法律家集団によって律令の解釈が行われることとなり、官司請負制の展開とともに世襲化の様相を呈することになる。 律令国家から王朝国家へと転換した後も、天皇や摂関、太政官の公卿らの支配階層によって理念上は律令法に基づく統治が行われていたが、現実には彼らは律令に関する知識を全く持っておらず、明法家も彼らが律令法に関与することを批難した(例:『春記』永承7年5月18日条・『左経記』長元7年8月24日条など)。従って、太政官における陣定によって罪名定(五位以上の官人に対する裁判)が行われる場合にも、実際には明法家が法解釈を示した明法勘文に基づいて裁決が出されるだけで、複数の明法家が出した明法勘文に矛盾があった場合には太政官の公卿は「法令に通じていない」ことを理由に裁決が行えず(明法勘文を踏まえずに裁決を出すことは「先例に反する」として問題視された)、偶々先例の知識から明法勘文に重大な誤りの存在が発覚した場合でも、具体的な問題点を追及できなかった。こうした状況にやや変化がみられるのは、院政期に入ってからで源経信や藤原宗忠、藤原頼長といった律令に通じた公卿も登場する。これは本人たちの知的興味の側面も無視できないものの、後三条天皇が記録所を設置して以後、明法家以外の公卿・官人も実際の訴訟などに携わる機会が増大していったことが背景にあったと考えられている。また、訴訟機関の整備と明法家の訴訟直接関与は表裏一体の関係にあり、訴訟を起こすものがあらかじめ明法家の明法勘文を得て提訴を起こしてその証拠としたために、太政官が訴訟の利害関係者となった明法家に諮問することができなくなって従来の太政官での訴訟形態が停滞して、従来の明法家の判断のみに拘束されない新たな訴訟機関の充実が必要とされた。九条兼実は自身も明法家を呼んで質問(「法家問答」)を行い、また「記録所が出す勘文に律令が引用されているのは当然で、全ての官司にある者は法令に通じているべきだ」(『玉葉』建久6年9月2日条)と指摘している。こうした支配階層の律令知識への関心の高まりが、明法家の活動とともに、鎌倉時代以後の公家法の形成や院評定の成立に影響を与えたと考えられている。なお、鎌倉時代後期に編纂された『明法条々勘録』は明法家の中原章澄と公卿の徳大寺実基の議論を元に編纂されているが、徳大寺も具体的な条文などを挙げて質問を行っていることが分かる。 ただし、異論もある。平安中頃まで争論は国司の元で処理されていて、中央貴族の関心は少なかったが、11世紀中頃から、荘園公領制の進展やそれへの国司側の対抗として一国平均役などが行われ、つまり荘園を巡って権門貴族と国との争いが生じやすくなり、それによる訴訟が現地で対応しきれずに中央に持ち込まれることが増えて、太政官裁定を巡って、明法家の役割の増大と、権門貴族の律令への関心の高まりとにつながった、という可能性が指摘されている。
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