明代以降
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「冊封体制」が復活した明代以降になると、漢字文化圏に入る要件を満たす国家(ないし地域)は現在まで続く安定性をほぼ確立しており、李氏朝鮮、琉球、大越(後の越南)、そして日本がこれにあたる。この時期には、日本が「冊封体制」から離れているほか、律令制が形骸化し、代わって科挙官僚制が発達するなど、西嶋の挙げた4件は全てを満たされなくなった。特徴的な文化要素として第一に挙げるべきは書記言語である。漢文の移入は漢字による自言語の文字化を促したため、日本の仮名、朝鮮の口訣、吏読、ベトナムのチュノムなど、漢字から派生した独自の文字や用法が発達し、それぞれの国家の固有性を保障する書記言語が確立した。宗教面では土着化した仏教、道教などが、地域的な濃淡と混淆(シンクレティズム)を見せながら民衆に普及し、政治思想としての儒教と合わせて、圏内でゆるやかに共通する思惟の枠組みが定着するに至った。食事における箸の使用、喫茶の習慣、建築における瓦の使用など、生活文化の中にも漢字文化圏を起源とし、これを中心に分布する特徴が見られる。
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明代以降
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明のとき、易州は保定府に属し、淶水県を管轄した。 1733年(雍正11年)、清により易州は直隷州に昇格した。易州直隷州は直隷省に属し、淶水・広昌の2県を管轄した。 1913年、中華民国により易州直隷州は廃止された。
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明代以降
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1370年(洪武3年)、明により綿州は成都府に転属した。1377年(洪武10年)、綿州は綿県に降格した。1380年(洪武13年)、綿県は再び綿州に昇格した。綿州は彰明・羅江の2県を管轄した。 1727年(雍正5年)、清により綿州は直隷州に昇格した。綿州直隷州は四川省に属し、徳陽・安・綿竹・梓潼・羅江の5県を管轄した。 1912年、中華民国により綿州直隷州は廃止され、綿陽県と改められた。
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明代以降
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明のとき、邠州は西安府に属し、淳化・三水・長武の3県を管轄した。 1725年(雍正3年)、清により邠州は直隷州に昇格した。邠州直隷州は陝西省に属し、淳化・三水・長武の3県を管轄した。 1912年、中華民国により邠州直隷州は廃止され、邠県と改められた。
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明代以降
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明のとき、秦州は鞏昌府に属し、秦安・清水・礼の3県を管轄した。 1729年(雍正7年)、清により秦州は直隷州に昇格した。秦州直隷州は甘粛省に属し、秦安・清水・礼・徽・両当の5県を管轄した。 1912年、中華民国により秦州直隷州は廃止された。
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明代以降
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1385年(洪武18年)、明により済寧府は済寧州に降格された。済寧州は兗州府に属し、嘉祥・鉅野・鄆城の3県を管轄した。 1776年(乾隆41年)、清により済寧州は直隷州に昇格した。済寧直隷州は山東省に属し、金郷・嘉祥・魚台の3県を管轄した。 1912年、中華民国により済寧直隷州は廃止され、済寧県と改められた。
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明代以降
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明のとき、絳州は平陽府に属し、稷山・絳・垣曲の3県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により絳州は直隷州に昇格した。絳州直隷州は山西省に属し、聞喜・稷山・絳・垣曲・河津の5県を管轄した。 1912年、中華民国により絳州直隷州は廃止された。
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明代以降
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明のとき、滄州は河間府に属し、南皮・塩山・慶雲の3県を管轄した。 1729年(雍正7年)、清により滄州は直隷州に昇格した。1731年(雍正9年)、滄州は天津府に転属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により滄州は廃止され、滄県と改められた。
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明代以降
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明のとき、光州は汝寧府に属し、光山・固始・息・商城の4県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により光州は直隷州に昇格した。光州直隷州は河南省に属し、光山・固始・息・商城の4県を管轄した。 1912年、中華民国により光州直隷州は廃止され、潢川県と改められた。
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明代以降
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明のとき、涇州は平涼府に属し、霊台県1県を管轄した。 1777年(乾隆42年)、清により涇州は直隷州に昇格した。涇州直隷州は甘粛省に属し、崇信・鎮原・霊台の3県を管轄した。 1912年、中華民国により涇州直隷州は廃止され、涇県と改められた。
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明代以降
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明のとき、隰州は平陽府に属し、大寧・永和の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により隰州は直隷州に昇格した。隰州直隷州は山西省に属し、大寧・蒲・永和の3県を管轄した。 1912年、中華民国により隰州直隷州は廃止され、隰県と改められた。
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明代以降
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明のとき、撫州府は江西省に属し、臨川・崇仁・金渓・宜黄・楽安・東郷の6県を管轄した。 清のとき、撫州府は江西省に属し、臨川・崇仁・金渓・宜黄・楽安・東郷の6県を管轄した。 1913年、中華民国により撫州府は廃止された。
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明代以降
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1369年(洪武2年)、明により沁州は直隷州に昇格した。1595年(万暦23年)、沁州は汾州府に転属した。1604年(万暦32年)、沁州は直隷州に昇格した。沁州直隷州は山西省に属し、沁源・武郷の2県を管轄した。 清のとき、沁州直隷州は山西省に属し、沁源・武郷の2県を管轄した。 1912年、中華民国により沁州直隷州は廃止され、沁県と改められた。
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明代以降
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1369年(洪武2年)、明により河中府は蒲州と改められた。蒲州は平陽府に属し、臨晋・栄河・猗氏・万泉・河津の5県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により蒲州は直隷州に昇格した。1728年(雍正6年)、蒲州直隷州は蒲州府に昇格した。蒲州府は山西省に属し、永済・臨晋・虞郷・栄河・猗氏・万泉の6県を管轄した。 1913年、中華民国により蒲州府は廃止された。
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明代以降
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明のとき、趙州は真定府に属し、柏郷・隆平・高邑・臨城・賛皇・寧晋の6県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により趙州は直隷州に昇格した。趙州直隷州は直隷省に属し、柏郷・隆平・高邑・臨城・寧晋の5県を管轄した。 1913年、中華民国により趙州直隷州は廃止され、趙県と改められた。
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明代以降
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明のとき、陝州は河南府に属し、霊宝・閿郷の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により陝州は直隷州に昇格した。陝州直隷州は河南省に属し、霊宝・閿郷・盧氏の3県を管轄した。 1912年、中華民国により陝州直隷州は廃止され、陝県と改められた。
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明代以降
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明のとき、商州は西安府に属し、商南・雒南・山陽・鎮安の4県を管轄した。 1725年(雍正3年)、清により商州は直隷州に昇格した。商州直隷州は陝西省に属し、鎮安・雒南・山陽・商南の4県を管轄した。 1912年、中華民国により商州直隷州は廃止され、商県・洛南県・柞水県が置かれた。
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明代以降
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1368年(洪武元年)、明により沂州は済寧府に転属した。1372年(洪武5年)、済南府に転属した。1374年(洪武7年)、青州府に転属した。1385年(洪武18年)、兗州府に転属した。沂州は郯城・費の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により沂州は直隷州に昇格した。1734年(雍正12年)、沂州直隷州は沂州府に昇格した。沂州府は山東省に属し、蘭山・郯城・費・沂水・蒙陰・日照・莒州の1州6県を管轄した。 1913年、中華民国により沂州府は廃止された。
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明代以降
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1373年(洪武6年)、明により瀘州は直隷州に昇格した。瀘州直隷州は四川省に属し、納渓・江安・合江の3県を管轄した。 清のとき、瀘州直隷州は四川省に属し、納渓・江安・合江の3県を管轄した。 1912年、中華民国により瀘州直隷州は廃止され、瀘県と改められた。
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明代以降
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1369年(洪武2年)、明により沢州は山西等処行中書省に直属した。1376年(洪武9年)、山西等処承宣布政使司に直属した。沢州は高平・陽城・陵川・沁水の4県を管轄した。 1728年(雍正6年)、清により沢州府に昇格した。沢州府は山西省に属し、鳳台・高平・陽城・陵川・沁水の5県を管轄した。 1913年、中華民国により沢州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 16:50 UTC 版)
1369年(洪武2年)、明により鄱陽府は饒州府と改称された。饒州府は江西省に属し、鄱陽・余干・楽平・浮梁・徳興・安仁・万年の7県を管轄した。 清のとき、饒州府は江西省に属し、鄱陽・余干・楽平・浮梁・徳興・安仁・万年の7県を管轄した。 1913年、中華民国により饒州府は廃止された。
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明代以降
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明のとき、陳州は開封府に属し、商水・西華・項城・沈丘の4県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により陳州は直隷州に昇格した。1734年(雍正12年)、陳州直隷州は陳州府に昇格した。陳州府は河南省に属し、淮寧・商水・西華・項城・沈丘・太康・扶溝の7県を管轄した。 1913年、中華民国により陳州府は廃止された。
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明代以降
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明のとき、寿州は鳳陽府に属し、霍丘・蒙城の2県を管轄した。 清のとき、寿州は鳳陽府に属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により寿州は廃止され、寿県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 08:40 UTC 版)
1371年(洪武4年)、明により河州路は河州衛と改められた。1373年(洪武6年)、河州府が置かれた。1377年(洪武10年)、河州衛は左右に分けられた。1379年(洪武12年)、河州府は廃止され、河州左衛が洮州衛に改められ、河州右衛が軍民指揮使司とされた。1473年(成化9年)、河州が置かれ、臨洮府に属した。軍民指揮使司が河州衛と改められた。 1738年(乾隆3年)、清により臨洮府は蘭州府と改称されたが、河州は蘭州府に属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により河州は廃止され、導河県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 03:15 UTC 版)
1371年(洪武4年)、明により洮州軍民千戸が置かれ、河州衛に属した。1379年(洪武12年)、洮州衛軍民指揮使司に昇格し、陝西都司に属した。 1748年(乾隆13年)、清により洮州衛は洮州庁と改められた。洮州庁は鞏昌府に属した。
※この「明代以降」の解説は、「洮州」の解説の一部です。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 01:24 UTC 版)
明のとき、鄧州は南陽府に属し、内郷・新野・淅川の3県を管轄した。 清のとき、鄧州は南陽府に属し、内郷・新野の2県を管轄した。 1912年、中華民国により鄧州は廃止され、鄧県と改められた。
※この「明代以降」の解説は、「鄧州」の解説の一部です。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 02:48 UTC 版)
明のとき、泗州は鳳陽府に属し、盱眙・天長の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により泗州は直隷州に昇格した。泗州直隷州は安徽省に属し、盱眙・天長・五河の3県を管轄した。 1912年、中華民国により泗州直隷州は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 09:30 UTC 版)
明のとき、雅州直隷州は四川省に属し、名山・栄経・蘆山の3県を管轄した。 1729年(雍正7年)、清により雅州直隷州は雅州府に昇格した。雅州府は四川省に属し、雅安・名山・栄経・蘆山・清渓・天全州・董卜韓胡宣慰司の1州5県1土司を管轄した。 1913年、中華民国により雅州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 09:00 UTC 版)
明のとき、眉州直隷州は四川省に属し、彭山・丹棱・青神の3県を管轄した。 清のとき、眉州直隷州は四川省に属し、彭山・丹棱・青神の3県を管轄した。 1913年、中華民国により眉州直隷州は廃止され、眉山県と改められた。
※この「明代以降」の解説は、「眉州」の解説の一部です。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 08:16 UTC 版)
1376年(洪武9年)、明により邛州は廃止され、邛県と改められた。1483年(成化19年)、邛県は邛州直隷州に昇格した。邛州直隷州は四川省に属し、大邑・蒲江の2県を管轄した。 清のとき、邛州直隷州は四川省に属し、大邑・蒲江の2県を管轄した。 1912年、中華民国により邛州直隷州は廃止され、邛崍県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 10:24 UTC 版)
1376年(洪武9年)、明により達州は廃止され、達県と改められた。1514年(正徳9年)、達県は達州に昇格した。達州は夔州府に属し、東郷・太平の2県を管轄した。 1728年(雍正6年)、清により達州は直隷州に昇格した。1802年(嘉慶7年)、達州直隷州は綏定府に昇格した。綏定府は四川省に属し、達・新寧・東郷・太平・渠・大竹・城口庁の1庁6県を管轄した。 1913年、中華民国により綏定府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 07:18 UTC 版)
1376年(洪武9年)、明により巴州は廃止され、化城県に編入された。1514年(正徳9年)、巴州が再び置かれた。巴州は保寧府に属し、通江・南江の2県を管轄した。 清のとき、巴州は保寧府に属し、通江・南江の2県を管轄した。 1912年、中華民国により巴州は廃止され、巴中県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 09:45 UTC 版)
明のとき、青州府は山東省に属し、直属の益都・臨淄・臨朐・寿光・博興・高苑・楽安・昌楽・安丘・諸城・蒙陰の11県と莒州に属する沂水・日照の2県、合わせて1州13県を管轄した。 清のとき、青州府は山東省に属し、益都・博山・臨淄・臨朐・寿光・博興・高苑・楽安・昌楽・安丘・諸城の11県を管轄した。 1913年、中華民国により青州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/26 08:16 UTC 版)
明のとき、荊州府は湖広省に属し、直属の江陵・公安・石首・監利・松滋・枝江の6県と夷陵州に属する長陽・宜都・遠安の3県と帰州に属する興山・巴東の2県、合わせて2州11県を管轄した。 清のとき、荊州府は湖北省に属し、江陵・公安・石首・監利・松滋・枝江・宜都の7県を管轄した。 1913年、中華民国により荊州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:48 UTC 版)
1369年(洪武2年)、明により莒県は廃止され、莒州に編入された。莒州は青州府に属し、沂水・日照の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により莒州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、莒州は沂州府に転属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により莒州は廃止され、莒県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:48 UTC 版)
1369年(洪武2年)、明により海寧州は海州の称にもどされた。海州は淮安府に属し、贛楡県1県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により海州は直隷州に昇格した。海州直隷州は江蘇省に属し、贛楡・沭陽の2県を管轄した。 1912年、中華民国により海州直隷州は廃止され、東海県と改められた。
※この「明代以降」の解説は、「海州 (江蘇省)」の解説の一部です。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:32 UTC 版)
1381年(洪武14年)、明により徐州は直隷州に昇格した。徐州直隷州は南直隷に属し、蕭・沛・豊・碭山の4県を管轄した。 1733年(雍正11年)、清により徐州直隷州は徐州府に昇格した。徐州府は江蘇省に属し、銅山・蕭・沛・豊・碭山・宿遷・睢寧・邳州の1州7県を管轄した。 1913年(民国2年)、府制廃止に伴い徐州府も廃止され、その府治のあった場所に銅山県が設置された。徐州会戦で日本軍により陥落した後、汪兆銘政権が銅山県に徐州市を置かれたが、徐州の名が復活している。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 09:27 UTC 版)
1368年(洪武元年)、明により萊州は萊州府に昇格した。1373年(洪武6年)、萊州府は萊州に降格した。1376年(洪武9年)、萊州は萊州府に昇格した。萊州府は山東省に属し、直属の掖県と平度州に属する濰・昌邑の2県と膠州に属する高密・即墨の2県、合わせて2州5県を管轄した。 清のとき、萊州府は山東省に属し、掖・濰・昌邑・高密・即墨・平度州・膠州の2州5県を管轄した。 1913年、中華民国により萊州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 09:00 UTC 版)
明のとき、合州は重慶府に属し、銅梁・定遠の2県を管轄した。 清のとき、合州は重慶府に属し、属県を持たなかった。 1913年、中華民国により合州は廃止され、合川県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:47 UTC 版)
1476年(成化12年)、明により汝州は直隷州に昇格した。汝州直隷州は河南省に属し、魯山・郟・宝豊・伊陽の4県を管轄した。 清のとき、汝州直隷州は河南省に属し、魯山・郟・宝豊・伊陽の4県を管轄した。 1912年、中華民国により汝州直隷州は廃止され、臨汝県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:00 UTC 版)
明のとき、鄭州は開封府に属し、滎陽・滎沢・河陰・汜水の4県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により鄭州は直隷州に昇格した。鄭州直隷州は河南省に属し、滎陽・滎沢・汜水の3県を管轄した。 1912年、中華民国により鄭州直隷州は廃止され、鄭県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 15:55 UTC 版)
明のとき、袁州府は江西省に属し、宜春・分宜・萍郷・万載の4県を管轄した。 清のとき、袁州府は江西省に属し、宜春・分宜・萍郷・万載の4県を管轄した。 1913年、中華民国により袁州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:24 UTC 版)
1369年(洪武2年)、明により下邳県は廃止され、邳州に編入された。邳州は淮安府に属し、宿遷・睢寧の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により邳州は直隷州に昇格した。1733年(雍正11年)、邳州は徐州府に転属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により邳州は廃止され、邳県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 04:22 UTC 版)
1376年(洪武9年)、明により蘄州府は蘄州に降格した。蘄州は黄州府に属し、広済・黄梅の2県を管轄した。 清のとき、蘄州は黄州府に属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により蘄州は廃止され、蘄春県と改められた。
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明代以降
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明のとき、曹州は兗州府に属し、曹・定陶の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により曹州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、曹州直隷州は曹州府に昇格した。曹州府は山東省に属し、直属の菏沢・単・鉅野・鄆城・成武・曹・定陶の7県と濮州に属する范・観城・朝城の3県、合わせて1州10県を管轄した。 1913年、中華民国により曹州府は廃止された。
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明代以降
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1369年(洪武2年)、明により亳州は亳県に降格され、帰徳州に属した。1373年(洪武6年)、亳県は潁州に転属した。1496年(弘治9年)、亳県は再び亳州に昇格し、鳳陽府に属した。 1724年(雍正2年)、清により亳州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、亳州は潁州府に転属し、渦陽・太和・蒙城の3県を管轄した。 1913年、中華民国により亳州は廃止され、亳県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 02:00 UTC 版)
1368年(洪武元年)、明により広州路は広州府と改められた。広州府は広東省に属し、直属の南海・番禺・順徳・東莞・新安・三水・増城・竜門・香山・新会・新寧・従化・清遠の13県と連州に属する陽山・連山の2県、合わせて1州15県を管轄した。 清のとき、広州府は広東省に属し、南海・番禺・順徳・東莞・従化・竜門・新寧・増城・香山・新会・三水・清遠・新安・花の14県を管轄した。 1913年、中華民国により広州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 04:00 UTC 版)
明のとき、廬州府は南直隷に属し、直属の合肥・舒城・廬江の3県と無為州に属する巣県と六安州に属する英山・霍山の2県、合わせて2州6県を管轄した。 清のとき、廬州府は安徽省に属し、合肥・舒城・廬江・巣の4県と無為州を管轄した。 1913年、中華民国により廬州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 02:48 UTC 版)
1368年(洪武元年)、明により雷州路は雷州府と改められた。雷州府は広東省に属し、海康・遂渓・徐聞の3県を管轄した。 清のとき、雷州府は広東省に属し、海康・遂渓・徐聞の3県を管轄した。 1913年、中華民国により雷州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 04:00 UTC 版)
明のとき、常州府は南直隷に属し、武進・無錫・宜興・江陰・靖江の5県を管轄した。 清のとき、常州府は江蘇省に属し、武進・陽湖・無錫・金匱・江陰・宜興・荊渓・靖江の8県を管轄した。 1913年、中華民国により常州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:54 UTC 版)
1368年(洪武元年)、明により廉州路は廉州府と改められた。1374年(洪武7年)、廉州府は廉州に降格した。1381年(洪武14年)、再び廉州は廉州府に昇格した。廉州府は広東省に属し、直属の合浦県と欽州に属する霊山県の1州2県を管轄した。 清のとき、廉州府は広東省に属し、合浦・霊山の2県を管轄した。 1913年、中華民国により廉州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
明のとき、許州は開封府に属し、臨潁・襄城・郾城・長葛の4県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により許州は直隷州に昇格した。許州直隷州は河南省に属し、臨潁・襄城・郾城・長葛の4県を管轄した。 1912年、中華民国により許州直隷州は廃止され、許昌県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 09:48 UTC 版)
明のとき、徳州は済南府に属し、徳平・平原の2県を管轄した。 清のとき、徳州は済南府に属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により徳州は廃止され、徳県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/26 09:00 UTC 版)
明のとき、同州は西安府に属し、朝邑・白水・郃陽・澄城・韓城の5県を管轄した。 1725年(雍正3年)、清により同州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、同州直隷州は同州府に昇格した。同州府は陝西省に属し、大茘・朝邑・白水・郃陽・澄城・韓城・華陰・蒲城・華州・潼関庁の1庁1州8県を管轄した。 1913年、中華民国により同州府は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/26 08:52 UTC 版)
明のとき、華州は西安府に属し、華陰・蒲城の2県を管轄した。 清のとき、華州は同州府に属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により華州は廃止され、華県と改められた。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 02:00 UTC 版)
1369年(洪武2年)、明により中山府は定州と改められた。定州は真定府に属し、新楽・曲陽の2県を管轄した。 1724年(雍正2年)、清により定州は直隷州に昇格した。定州直隷州は直隷省に属し、曲陽・深沢の2県を管轄した。 1913年、中華民国により定州直隷州は廃止された。
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明代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 02:00 UTC 版)
1369年(洪武2年)、明により歴陽・烏江の2県は廃止され、和州に編入された。1374年(洪武7年)、和州は鳳陽府に属した。1380年(洪武13年)、和州は直隷州に昇格した。和州直隷州は南直隷に属し、含山県1県を管轄した。 清のとき、和州直隷州は安徽省に属し、含山県1県を管轄した。 1912年、中華民国により和州直隷州は廃止され、和県と改められた。
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