救貧法とは? わかりやすく解説

きゅうひん‐ほう〔キウヒンハフ〕【救貧法】

読み方:きゅうひんほう

生活困窮者の生活を扶助し自活に導くことを目的とする法律英国に始まる。日本では恤救(じゅっきゅう)規則1874年)・救護法1929年)・生活保護法1946年)がこれに相当する


救貧法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/17 08:58 UTC 版)

イングランドの救貧法(きゅうひんほう、Poor Laws)とは、近世〜現代のイングランドにおいて、貧民増加による社会不安を抑制するための法制をさす。1531年に救貧が始まり、エリザベス救貧法をはじめ幾度も改正が繰り返され、結果的に福祉国家イギリスの出発点となった。イングランド救貧法は近代的社会福祉制度の先駆として模範のひとつとされ、諸外国も福祉制度の導入にあたって参考にした。


  1. ^ 新約聖書2 共同訳聖書実行委員会、日本聖書協会・訳 佐藤優・解説 文藝春秋 2010年 ISBN 9784166607822 p263
  2. ^ 浮浪者・物乞いに厳しい制度だったことから、のちにマルクスが「血なまぐさい立法」と評している。
  3. ^ マルサスは、貧困は人口増加によって必然におこるものであり、安易な救済よりも人口抑制をはかるべきと主張した。また貧民には貧しいことを恥じるべきであるとした。
  4. ^ 当時、院外救貧は35万人、懲治院内救貧は10万人と推定されている。
  5. ^ 世界大百科事典』(1988年版)(平凡社)「公的扶助」の項目


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救貧法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:21 UTC 版)

ケント (イングランド)」の記事における「救貧法」の解説

救貧法に従い教区では自地区貧民世話をしなければならず、最低限保護施設食事衣服医療与えることになった。殆どの教区19世紀初頭には急速に救貧法が重荷になっていった。人口急増し必要な土地不足し救貧法改正が緊急の課題になった1834年には懲治院として知られる施設変更された。こうした施設教区団体良く運営したために連邦救護院と呼ばれている。保護委員会はこうした機関監視するために設立された。

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救貧法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 02:29 UTC 版)

社会保障」の記事における「救貧法」の解説

大航海時代は、世界貿易発展させ、商業一大変革もたらしたイギリスでは毛織物工場設立促し輸出志向するエンクロージャー囲い込み政策により、イギリス農地一斉に牧場変わっていった。農地から追い出され農民たちは都市流れ込み無産者貧民となった1601年イギリスではこれまでの救貧施策まとめてエリザベス救貧法を制定し家族による支援得られない貧困者を救済する法を制定した。この救貧法(Poor Law)は現在の公的扶助にいたる原形となるが、当時社会保障という言葉生まれていなかった。1834年に救貧法の大改正が行われ、貧民処遇一元化中央集権化図られた。新救貧法では、貧困者は救貧院収容されて、そこで働かされることになった救貧水準について「自立して働いている人のうちのもっとも貧しい人の生活水準以下で救済する」という、劣等処遇原則院外救済禁止市民権の剥奪などが確立されていったが、その劣等処遇過酷さ社会的批判が高まるようになる

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救貧法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:40 UTC 版)

ナッソー・ウィリアム・シーニア」の記事における「救貧法」の解説

43歳になる1833年には救貧法委員会委員任命され同法改正決意して十数年の年月経て、ようやく実現チャンス見舞われた。この主題取り上げた著作では、法律歴史実務徹底的に精通した弁護士視点論考して、同時代著作でも非常に有益なものの一つと言える。公への奉仕認めた政府から、ナイト爵位の叙勲ならびに報奨金500ポンド支給打診されるが、固く断っている。1830年には著書Three Lectures on the Rate of Wages』を発表移民貧窮救済策ととして奨励する法案について、予備的手段という条件付き賛成した1836年6月10日大法官裁判所(英語)の長という要職任命される同職廃止1855年まで在任)。翌1837年工場委員会加わりその後愛蘭委員会1841年もしくは1844年)、教育委員会1857年)と複数委員会政府補佐した1864年6月4日自邸にて永眠75歳であった

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